勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2007年05月

新しい映画の評価基準1=「情報圧=情報密度」

ポストモダン的、データベース的、キャラクター小説的なポストモダンな映画、パイレーツ3。モダンな視点からは×。だが、これはポストモダンな映画なのでポストモダンの視点から評価しなければならない。そう、こういった映画の評価のためには、もはや別の立ち位置が必要なのだ。そこで以下、ポストモダン的な映画、つまりデータベース消費とキャラクター小説の要素を含む作品をいくつかチョイスし、それらとの比較でパイレーツの評価をあらためてやってみよう。

これらの要素すべてを含むもので、メジャーな作品としてパイレーツ、スターウォーズ、そしてマトリックスを取り上げ、比較してみる。いずれもシリーズ化していて(それぞれ三部作、六部作、三部作)、情報がどんどん増えていき、謎も増える(というか勝手に出来る)という仕組みになっている。

比較に当たっての評価基準はなんだろう。さしあたり、ここで思いつくのは「情報圧=情報密度」と「ポスト世界観」、そして「趣向」(大塚英志)だろう。前者一つは評価のための必要条件、後者二つは十分条件という位置づけになる。

「情報圧」とは、とにかく映画の中に情報の情報量、つまりオーディエンスが取り出すことが可能となる情報の量のことで、これが多ければ多いほど、好き勝手にデータを収集して小さな物語を作ることが出来るゆえ、「情報圧が高い」よい作品となる。この基準から評価すればスターウォーズ>マトリックス>パイレーツということになろうか。

スターウォーズは要するに六作もあるので情報が滅茶苦茶多く、しかも長い歴史(30年間)で培われたこともあって、必然的に圧倒的な情報圧の高さを誇ることになる。これに関しては、異論はないだろう。残りの二つはマ>パイとしたが、まあ表面的な情報自体はあまり差はない。ただし、マトリックスの場合、それらここの情報にさらに謎(コノテーション的=神話的要素)が付随していて、つまり「謎の奥に、もう一つ謎がある」という設定がある。要するに情報を組み合わせると、一段深い意味が現れる、あるいは現れるのではないかと思わせる。この面ではパイレーツよりは深度という点で情報密度が濃いといえるだろう。パイレーツの場合、この奥の、裏の情報はほとんど無い。ようするに三部作をよく見て紐解けば終わり、といった程度の深度の浅い情報量なのだ。表層的という意味では、徹底したエンターテインメントに徹し、なおかつファミリーエンターテインメントに徹しているディズニーという企業の体質をきっちりと背負っているのだ。(続く)

データベース消費

こういったストーリーのギクシャクした映画を楽しむというのは、要するに新しい映画の視聴スタイルの出現と考えなければならない。そしてこのような映画の消費のやりかたは、東浩紀の指摘するデータベース消費、そして映画のストーリーは大塚英志のキャラクター小説ということばを該当させればスッキリと理解できるだろう。

データベース消費は、それまでの物語消費と対比して説明されている。物語消費の場合、読者は作品内容を構成する部分=小さな物語を拾い集める、つまり消費し続けることで、最終的にその先にそれらを統合した大きな物語にたどり着く。これは典型的なモダニズムに基づいた作品の消費のやりかただ。

データベース消費において読者は作品内容を構成する部分=小さな物語を拾い集めるが、読者はその先にそれらを統合する大きな物語を読むことはない。小さな物語それぞれに耽溺する=「萌える」か、小さな物語を組み合わせて別個の物語を構成する。あるいは、物語の設定やキャラクターだけを抽出し、任意にこれをカスタマイズする。この場合、作品全体は「物語」と言うより、こういった加工編集するための「データベース」と見なすことが出来る。

キャラクター小説

一方、キャラクター小説とは、既成のキャラクターの特徴を拝借して換骨奪胎し、新しいキャラクターを作成。次に、やはり既成の設定から拝借して同様に換骨奪胎し、新しい設定を構築。その中にキャラクター流し込んで、次々と話を展開させていくというもの。キャラクターの絡みがもっとも重視されるもので、その際ストーリーはあまり重要視されない。

キャラクター小説的な手法、実は何も新しいものではない。たとえば古くは、アガサクリスティーの小説(すいません、タイトル忘れました)の中には、世界中の有名探偵、つまりポアロ以外にシャーロック・ホームズなんかが登場して、事件を集団で解決するというものがあった。またマンガではドラゴン・ボールが典型だ。これも次々とキャラクターを登場させることで作品が延々と続けられた(人気があるので、作者の鳥山明が作品終了することを集英社に止められていたという事情もあるが)。また、これを、ある種パクッたものとしてはキン肉マンがあるが、これも当初のどたばたギャグ・アニメが、途中から様々なキャラクターが登場し、善と悪で対決する図式のような壮大な物語へと話が展開していった。ちなみに、どちらもストーリーはこれらキャラクターを動かすための設定の域を出ていない。さらにさらに、これを実写?でやって見せたのが70年代後半のアントニオ猪木だった。猪木は「萌える闘魂」のキャッチフレーズの下、プロレスラーごとにキャラクターを設定し(その設定の演出を行ったのは古舘伊知郎)、これらレスラーがリング上で覇権を争うという壮大な物語=「戦いのワンダーランド」(古館)を作り上げていった。

さて、こういう風に考えると、パイレーツ、そしてスターウォーズといった作品群はこういった要素をすべて持ち合わせていると言うことがわかる。われわれはパイレーツから、任意にそして状況に応じて、次々と勝手に小さな物語を作り上げ、それを享受する。だから、新しく作られる作品はそういったもの=情報=データをおもちゃ箱をひっくり返したようにぶちまけてくれることがもっとも必要なニーズなのだ。もちろん、これら作品を単体=一つの完結した物語、その作品から単一のメッセージを読み取ろうとするモダンな輩には、平板で、凡庸で、まとまりのない作品にみえてしまうのだが。(続く)

コンテンツ入手の易化

メディアの発達とともにコンテンツは一回性(一度観たら終わり)のものではなくなると、オーディエンスが細分化して手を加えるということをやり始めた。そしてメディアの低廉化は、さらにこれに拍車をかける。かつて、80年代初頭、映画のビデオは一本一万円以上していた。それがどんどんと値段が下がり、一本3000円もしないような価格で、ロードショー終了間もない作品が販売される。しかも、販売ルートは専門店ばかりでなく、その辺のコンビニも加わるようになった。

そして、これらテクノロジーの普及と販売ルートの確立は映画視聴のあり方を根本的に変容させていくようになる。オーディエンスにとって映画は映画館で観て終わりなのではなく、その後、テレビ放映を観、ビデオを購入・レンタルして視聴するようになる。つまり何度でも観るというのが一般的になったのだ。

これによって映画の作り方は、必ずしも映画館で観て理解できなくてもいい、というものになる。映画館では映像による強烈なイメージさえ与えておけば、中身は難解でもオーディエンスは我慢できる。なぜなら、とにかくこのスペクタクルを楽しんでしまい、後ほどビデオで細かくチェックすればいいと、最初から認識しているからだ。ストーリーや構成がよくわからないで映画を見終える→ビデオでチェックする。楽しければ何度でもチェックするというわけだ。

これは、制作側にとってもきわめて都合がよい視聴スタイルの誕生だった。第二作、第三作と続編を次々と作ることが出来るからだ。そして続編を見る際にはオーディエンスの側はビデオでしっかり前作を学習している。ということは新作を映画館で観ることは、その仕込んだ学習内容を踏まえて、新作が提示する謎解きをやることになるのだ。しかし、作る方もそのままではない。これにまた複雑な要素を入れてくる。これによって前作の謎が解決するだけでなく、新しい謎が提示される、あるいは解決するはずの謎が、さらに謎を呼ぶ展開となる。そこで、またわからない。で、ビデオが出るのを待って早速購入。また謎解きに明け暮れる。あるいは、好みのキャラクターの新しい演技=展開を堪能する。これが繰り返されることになるのである。要するに制作側にとって、以前は映画の興行のみが収入源であったのが、これにテレビやビデオ、さらにはノベライズ、キャラクターグッズの販売とメディアをミックスして多方面から収入を得、さらに続編を作ることでこのパターンを繰り返すことが可能になったのだ。

気がつくと、繰り返し視聴していた

こうなると、キャラクターや謎解きという映画のパーツを楽しみにしているお客にとって、ストーリーはもはやこういった消費のための道具に成り下がる。観客はとにかく、さんざん学習した様々な知識の「復習」を新作の中で行っていることになるのだ。

パイレーツ3はまさにそういった作品だった。とにかく謎解き満載。こちらとしては勉強していったつもりでもやはりすべては消化できない。ちなみに今回はなんと言うことか、入場前にその謎解き項目について一覧されているリーフレットが配られた。二つ折りになっていて、中身はシールで貼り付けてあってはがさないと除くことが出来ない。表側には「○○はどうなった」と謎が個条書きで書かれている。そして、「中身は映画を見終えるまで開くな」とある。そう、その中身にはネタバレになる内容が満載で、しかも細かな謎解きの答えが書いてある。ただし、答えはそれぞれについて半分くらいの解説で終わっている。つまり、これは「みなさん、まあ前作二つで勉強してきたとは思いますが、本3作目を見終えても、全部はわからなかったでしょう。そこで、そのお答を多少お教えしますので、全部知りたければもう一回見に来てくださいね」というメッセージなのだ。

見落としたところがいくつもある観客は、この説明を見て悔しがる。で、前作二つをもう一度チェックし(前作二つと3作目のつながりについてのヒントも掲載されていた)、内容を確認するとともに、前作の中に新たな発見をする。そして当然のことながら、ロードショーへもう一度足を運ぶと言うことになるのである。そういえば、気がつかないうちに、自分もロードショーの最中に同じ映画を二度見に行くというようなことを最近やるようになっていることに気がついた。自分も見事にポストモダン的、オタク消費的な映画の味方をし始めていたのである。(続く)

ポストモダン映画としては高評価

パイレーツ3はストーリーがごちゃごちゃしてダメな映画。でも満足する。なぜ、こんな心理状態になるのだろうか。それはこの映画が「モダニズム的視点から見たら失敗作。だがポストモダニズム的視点からすれば、結構、成熟した作品」だからだ。

モダニズム的視点とは、前回述べたようなストーリー性を重視し、一貫した内容によって話を完結させるような視点から作品を評価すると言うこと。このレベルでは全くダメなのだ。つまり、きちんとした、それでいて斬新なストーリーの上を、キャラクターが縦横無尽に個性を発揮することで、ストーリーがいっそう輝きをもつとともに、キャラクターの個性の奥行きの深さも感じさせる。こんなことを期待したらこの作品は、まるきり×である。ストーリーは前述したとおりつじつま合わせが第一の仕事となっているお陰で、ギクシャク、ガタガタしている。僕が前回まで「ダメ映画」と評したのは、こういったモダニズムの視点からの評価なのだ。

一方ポストモダニズム的視点とは、こういった意味の一貫性、一元性よりも、情報圧・情報の密度を重視するような視点から作品を評価すると言うこと。とにかく、オーディエンスが多方面からアクセスできるような情報が満載されていて、それとなくストーリーが展開されているようなデータベース的な映画という視点。このレベルではスターウォーズに比肩しうるほどの出来に到達している(ちょっとホメ過ぎか?)。たくさんの謎解きがあって、たくさんのキャラクターがいて、オーディエンスは、自由にそれら断片断片に肩入れできるとともに、勝手に作品に思いを描くことが出来る。こちら楽しみ方の評価からすれば○なのだ。実際、前作とのつながりを紐解かなければならないシーンや道具はふんだんに盛り込んである。で、この作品は、こういった視点からの鑑賞がもはやオーディエンスの中心。ということは、お客のニーズにしっかり応えた、そういった意味では完成度の高い作品なのだ。

メディア・インフラストラクチャーの整備~テクノロジーの普及

さて、われわれが置かれているメディア環境を考えてみよう。かつて、たとえば明治時代であったならば情報を入手するメディアは限られていた。電子メディアなど存在することはなく、マスメディア的な情報といえば新聞とか雑誌などの出版物程度だった。それがラジオの出現、テレビの出現などによって次第に情報入手チャンネルが増加していく。しかしそれでもこれらはいわば一回性のメディア。つまり、一度観たら二度と見られること無いメディアだった。

ところが七十年代にはラジカセが、八十年代にはビデオデッキが普及することで、こういった放送されれば消えてしまう情報は録音、録画によって保存可能なものとなる。さらにレンタルビデオ店の出現はこういった状況に拍車をかける。つまり、保存可能になることで、いつでも視聴したいときに視聴が可能になると同時に、繰り返し観ることが可能になる。

そしてオーディオも映像もデジタル化していった90年代末以降、今度は単に繰り返し視聴するだけではなく、音をサンプリングして自由に変形させたり、映像の一部を繰り返し視聴したり、静止させてみることで、映像の構造を微細にチェックすることが可能となった。

こうなると映像も音響も単なるデータとして分解され、それを自由に加工したり解釈したりすることが可能になる。パイレーツであるならば、ジョニーディップ・ファンは彼の出演するシーンだけを繰り返し観たり、そこだけを編集、つまりマッシュアップして楽しむことが可能になったのである。作品は統合されたものではなく、部分部分を切り取って楽しむようなやり方が一般的になってきた(これは何も実際に加工するという行為を行うことを意味しているのではない。こういった手軽な操作が可能となることで、いわば頭の中で映画の中の任意の部分(たいていは自分のお気に入りのシーン)を編集して楽しむことが出来るようになったのだ)。こういうかたちの、作品全体ではなく、一部に熱を入れあげることは、言うまでもなく「萌え」ということばで表現することが出来るだろう。(続く)

ウォルト・ディズニーが心がけたストーリー性

パイレーツ・オブ・カリビアン。この映画の制作はディズニー・カンパニーであるが、創始者のウォルト・ディズニーが映画を作る際、常にスタッフに言い聞かせていたのは「ストーリー重視」だった。どんなに絵がキレイで斬新でも、ストーリーがよくなければ決してよい作品とはいえない。つまり、作品に一貫性が無ければいけないと、口を酸っぱくして言い続けたのである。ちなみに、これはディズニーの経営が安定するきっかけを作ったテーマーパーク事業=ディズニーランドのコンセプトに大きく反映されている。ディズニーのことを知っている人間には「釈迦に説法」だが、ディズニーランドのアトラクションやレストランには必ず物語が用意されており、それが施設のリアリティを演出している。

たとえば、ディズニーランドのアトラクションの一つ、ビッグサンダー・マウンテン。アウトドア形式のジェットコースターだが、これにはだいたい次のようなストーリーがある。

ゴールドラッシュ、西部開拓で開かれた鉱山・ビッグサンダーマウンテン。だが金はすべて掘り尽くされ、廃鉱に。そして人は誰もいなくなったはずなのだが、なぜかトロッコが相変わらず鉱山の中を駆け抜けている。しかもそこには誰も乗っていない。では、誰が?

19世紀当時、フロンティア・スピリットに燃えた開拓者たちは一攫千金を求めて西へ西へと進んでいった。そしてその名の通り金をせしめ成功者=アメリカンドリームの体現者となったものが現れる。しかし、そのほとんどは夢破れ、未開の地で寂しく人生を全うした。そう、こういった夢を果たすことが出来ず、死んでいった人間たちの怨念が亡霊となって、この幽霊トロッコを走らせているのである。

こういったストーリー設定と、それに合わせた演出は、結果として、その統一感からアトラクションに一種独特のリアリティを醸し出している。いわばディズニーという人物はストーリー性という一貫性と直線性、目的に対して適切な手段を配置するという合理性を前提にファンタジー=ロマンを構築する徹底したモダニストだったのだ。

ストーリー性の未整備。モダン映画としては低評価

ところが、この映画にはこういったウォルトの精神は反映されていない。ストーリーがないとはいえないが、課題となっている膨大な情報整理のためにストーリーの線がスッキリと通らなくなってしまっているのだ。前述したように、とにかくどんどんシーンが変わり、それがすべて特撮=スペクタクルシーンなので、それ自体で飽きることはないのだが、ウォルト的に考えればこれはダメな映画なのである。そう、モダニスト的オーディエンスがこの映画を評すれば、整理が行き届いておらず、意味の一貫性に欠けた「分裂的」な作品と言うことになる。実際、三部作であるこのシリーズの三つ目である本編から作品を見たら、映像のおもしろさはともかく、内容は全然わからないだろう。言うまでもなく第3作は前二作でバラまいた情報を整理することが目的なのだから。

これと、全く同じ印象を抱いたのは「スターウォーズ・エピソード3・シスの復讐」だった。この作品は、アナキン・スカイウォーカーがダース・ベイダーになっていくまでの物語。スターウォーズシリーズは六作で構成されているが、第一作がエピソード4で、5,6,1,2という順番で制作された。そして真ん中に当たるこのエピソード3が最終作となっている。で、三十年近く前に制作されたエピソード4の前半を作る、しかも時系列的には一世代前の話をということで、それ自体に無理があるのだが、もっとたいへんなのは4、5,6,1,2でばらまいた情報をすべて整理し、エピソード4とスムースに連結するという作業をしなければならないということ。だから、この作品もストーリーどころか情報整理=謎解きに終始すると言うことになった。スターウォーズ・オタクだったら、たぶん、つじつま合わせが失敗しているところを山ほど見つけられるのでは無かろうか。僕でさえもいくつか発見できたのだから。

だから、ストーリーはある意味「どうしようもないな」とおもわせるものであった。でも、やはりこのときも僕は飽きることなく、結構満足したのである。ダメな映画に満足するとはどういうことなのだろうか?(続く)

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