勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2007年04月

かつて若者は、全共闘(団塊)世代、モラトリアム人間、新人類というように、明瞭にイメージを描くことができた。だが近年、「いまどきの若者」は、ひとことで表すことが難しくなっている。実際、若者イメージは多様で、つかみどころがない……最近、僕はこういった「物言い」に疑問を感じている。

僕は、メディアから「新人類」という名称を与えられた世代。だが、当時、自分はこのイメージには該当しなかったし、新人類的な性格を持った人物も周辺には皆無だった。また、僕が大学などで関わってきた後続世代の若者たちも、メディア上に流布する若者像に反発するのが常だった。だから、若者が一元的でないのは今にはじまったことではない、という確信がある。

では、なぜ一元的若者像がこれまで流布してきたのか。メディア論的視点から考えてみたい。「いまどきの若者」と大人が言うとき、その「いまどき」さはメディアの提供する若者像に基づいている。これら若者のイメージは、大人たちが実際にそのような性格の若者に遭遇したというよりも、メディアが媒介したイメージを無反省に受容し、それを周辺の若者にあてはめたものだ。

たとえば、現在、五十代半ばの世代は全共闘世代と呼ばれた。だが全共闘運動に加わっていたのは、当該世代人口の1%未満の、都市大学に属する一部の男性にすぎなかった。にもかかわらず、学生運動に象徴される彼らの過激さが、世代全体の性格のように語られたのだ。

なぜか。それは全共闘がメディア的に写り映えしたからであり、そのイメージを社会が必要としたからに他ならない。
戦後、わが国の共同体は崩壊する。それによって若者たちは自己同一性確認のための足場を喪失した。一方、高度経済成長を契機に消費社会が進展。資本は新市場の開拓を余儀なくされる。

このとき創られたのが前述した一元的な若者像だ。つまり、若者にとっては共同体の代替となる立ち位置、資本にとっては新たなマーケットの対象として、メディア上に単純化された若者像が展開されたのである。「この商品を購入すれば、君も若者ですよ」と若者にプロパガンダし、それを若者たちが購入することで、若者のアイデンティティ確立と市場の活性化が同時に成立する。また、大人からすれば、こういった若者像に基づくことで、若者と関係を単純化することが出来る。だから、その実在など問題ではなかった。

こういった若者像は80年代末くらいまでは有効性を持っていた。だが90年代、一元的な若者像は消滅する。

情報化・民主化の急進によって、情報、モノが生活環境に氾濫し、あらゆる事象の価値観相対化が進行する。「若者らしさ」も個別化が進行。若者像が提示されても、即座に多様化、細分化されたイメージの中に吸収されてしまう。一元的イメージは同一化、商業的利得双方での有効性を失ってしまったのだ。当然、ニーズは消滅。若者が見えない状況だけが残された。

だが、よく考えれば、これは一元的イメージ出現以前の若者のとらえ方に戻ったに過ぎない。情報化は、若者を不可視化したのではなく、メディア上に流布し、戦後の一時期、リアリティを持ちえていた架空の若者像を相対化したのだ。なんのことはない。巡り巡って若者へのわれわれのスタンスを、振り出しに戻しただけなのである。

むしろ、若者は、どの時代でも常に多様。そして、悩み、恋し、自己同一性を求める点では一様、と考える方が正当だろう。
そう、はじめから「いまどきの若者」など、メディア上にしか存在しなかったのだ。

こういった「平等主義」こそ差別差社会・格差社会の温床なのだ

全国学力テストによって個人の学力レベルが判明することと、全国学力テストが、格差社会を助長する競争原理のツールとして使われてしまうこと~「よい学校」と「悪い学校」が峻別され、学校自体が「優秀=勝ち組」「落ちこぼれ=負け組」が出来てしまうこと~が同一線上で語られること。つまり個人学力の判明が格差社会を生んでしまうという根拠無き接続=混同。このような認識を促してしまう温床は何なのだろう。

それは「平等主義」の体裁を取った「差別主義」ではないだろうか。

子供たちが差別されないようにするために学力の相対的な評価を下さない、運動会で順位をつけないという前提。実はこの考え方自体は、平等でも何でもない。というのも、この考え方は「学校社会における競争が絶対的な価値を有する」ということを意味しているからだ。ようするに、子供にとって学校の成績こそ社会評価の頂点であるという考え方が無意識のうちに前提されているのだ。

こういった存在論的な前提は、ある意味、究極の差別意識と見なすことが出来る。つまり学校外の、とりわけ学力以外の項目が一切、個人の評価対象となっていないというインフラを産んでいるだ。「平等でなければいけない」という認識論的前提が「学校絶対主義」という存在論的前提、つまり学校こそが最高の評価基準であるという、価値観の絶対的不平等の元で成立しているのである。

本当の平等とは

全国学力テストを実施すること自体はニュートラルなもの。いや前述したように、子供の学力の程度を把握するには非常に便利なものだ。問題なのはその用い方なのである。

学校の環境、学力といったものは個人の能力全体の単なる断片でしかない。背が高いとか、足が長いとか、楽器演奏がうまいとか、足が速いとか、絵がうまいとか、マンガがうまいとか、電車のことをよく知っているとか、アイドルに詳しいとかということと全く同じ能力の一つである。だからわれわれは学校の環境、学力を相対化し、様々な価値観のたかが一つしててとらえる必要があるし、社会制度的にもこういった方向で政策を進めるべきなのである。

もし、こういった学校社会の相対化が起これば、足が速くなかったとしても他の側面で能力を伸ばしていれば、その子供は評価され、尊重される。また成績が悪くて、一生懸命やっても伸びないとしても、他の能力を探すことが出来るわけである。そして、それぞれの分野の価値観が平等であれば、足が遅かろうが、成績が悪かろうが、それはどうでもいいことだろう。

現在蔓延している「学校社会絶対化」の傾向。六十年代に言われはじめた受験戦争のイデオロギーが根強く残っていることの証左ともいえよう。東大を頂点とする学力社会ヒエラルキーである。ここでは高偏差値大学に入る=アタマがいい=社会の勝者といった、あまりにオバカな図式が存在したが、まだまだこのオバカさ加減は残存しているということなんだろう。

はっきり言っておこう。アタマがいいというのは東大に行けると言うこととはあんまり関係はない。あそこにはいるために必要なのは「処理能力」という人間が備えている多様な能力の中のひとつ。つまり何も考えず、暗記して素早くことを運ぶ能力だ。じっくり考えたり、工夫したりする能力は審査の対象とは、原則的にはなっていない。

東大生が便利なのはサラリーマンにしたら、仕事を性格に速くこなせる可能性が高いということ。つまり左脳系なのでビシバシ仕事を処理する。ただし、それは新たに仕事をクリエイトするということとはあんまり関係がない。それは右脳の仕事。右脳と偏差値はあんまり関係がないからだ。まあ、そっちの能力だけが肥大しているので、社会性が無く、全く使えないという危険がないこともないのだが。(また、誤解がないようにお断りしておけば、東大だって「右脳」が優れている人間はたくさんいる)

もう少しわかりやすく言えば東大に行っていない各分野の一流どころは、東大生よりも遙かに優秀だ。イチロー、中村俊介、村上隆、浅田真央、SMAP……まあ挙げればきりはない。

というわけで、もう少し小学校に於ける学力認識を相対化する必要があるだろう。だからこそ全国学力テストはむしろ必要ともいえるのではなかろうか。ただし、これはこれで単なる目安でしかない(身長が高いか、引く以下くらいのもんだとして処理するべき)という認識の下での実施という留保が付くが。

こういった認識を促すためには、かつての学級の雑多な人間構成を復活させればよい。学校のクラスにはけんかの強いヤツ、気の小さいヤツ、優しいやつ、勉強の出来るヤツ、スポーツの出来るヤツ……いろいろな個性が雑多に存在し、それぞれが尊重されていた。そういった環境は、それぞれの価値観を相対化することを可能にするだろう。ただし、絶対的な個の人権が求められる時代では、個性の伸張の自由度が低いこういう環境をほとんどの人間は望まないのだろうが。

学力テスト再開の波紋?

43年ぶりに全国学力テストが実施された。参加者は小中学校生合わせて233万人。これには賛否両論が渦巻いているが、結構批判的な意見が多い。

もっとも典型的なのは、これが「格差社会」を有無温床になるのではないかという懸念だ。つまり学力テストによって、個人の学力が客観的に査定される。さらに学校単位、地区単位で学校のレベルが判明する。これによって、成績の悪い生徒がいじめられたり、成績の悪い学校の評判が落ちたりするのではと言うわけだ。

とりわけ、政府がこの結果を基に学校を優遇することを考慮したいなんてことを言ったのも波紋を広げる要因となった。ついでに学校の自由選択制なんてことも言われはじめているわけで、こんなことをやったら、出来る学校と出来ない学校が明確に区分され、落ちこぼれ学校と、優秀学校という環境が出来上がっていく。だから、全国テストはいけないというわけだ。

議論のはき違え?

だがこの議論、合っているような、合っていないようなところがある。つまり、部分的にはき違えていないかと言いたいのだ。

先ずはき違えていないところから挙げてみる。たしかに自由競争性を導入して、学校選択制にし、学校の優遇制度を設ければとんでもないことが起こる。落ちこぼれ学校は「悪の巣窟」というレッテルが貼られ、格差社会の底辺として扱われることになるだろう。ひょっとするとその学校の周辺はゴーストタウン化するかもしれない。だから少なくとも、学校選択制と学力テストによる優遇生といった、ある意味「偏った」(つまり自由競争の中でゆがみを必然的に生じてしまう)制度を導入することは、平等性を著しく欠くことになるだろう。

ただし、それは必ずしも学力テストの実施と関わるわけではないだろう。学力テストはまず個人の学力をチェックすることで、全国の生徒の中で自分がどの位置にあるのかを知るのにはよい指標だ。問題は、前述した政府や学校が自らの競争原理として用いることの害悪と、個人の成績が判明することがごっちゃになっていることだ。

これをごっちゃにする心性の背後にあるのは、実に妙竹林な民主主義の考え方である。簡単に言えば何でも平等主義的な発想。現在、多くの小学校では運動会の際、順位をつけないなどというバカな方針を貫いているところがある。また、これは全国的なことだが生徒の成績は小学校では絶対評価。つまりその子供が以前に比べて伸びたか伸びなかったかだけが基本となる。だから、本当の実力はわからず、中学校になって初めて判明する。それだけではなく中学校に入っても、他の学校と比較することが中学三年までは出来ない(中三で実施される模試で初めて判明する)。で、高校受験になって、親が子供の実力を初めて知り、あわてふためくというわけだ。逆にそれをおそれている親は、子供をとっとと全国レベルが判明できる塾に通わせるようになる。

こんなことをするのは子供が成績の上下によって差別されることを懸念するからだ。そして今回の全国学力テストへの批判は、前述した制度的な格差社会化の進行と個人が成績によって差別される懸念を同一線上・同室のものとして扱っているところに特徴がある。つまり個人の学力が判明してレベルが判明することが格差社会の誕生と言うことになるという双方の部分を羊頭狗肉に結合することによって議論が勃発しているのだ(続く)

テレビ番組内収穫2.徹底したメディア戦略と活字メディアへの冷遇

もう一つは、これは番組収録中に問いあわせたもの。実は放送美前日の金曜、僕は毎日新聞西部本社(九州全域と山口県、沖縄県を統括する)から原稿の依頼を受けていた。内容は統一地方選の結果について。原稿の入稿は7日土曜の夜、最終手直しは8日日曜午前中、掲載は月曜の朝刊なのだが、この中では統一地方選の結果を顧みなければならない。なんのことはない。結果がわからないうちに結果の原稿を入稿しろと言うのだ。まあ乱暴といえば乱暴なのだが、これはマスコミでは常識。また、メディア論的に言えば今回の統一地方選は「無風」かつ「投票率の低下」は見えていた。また担当の新聞記者もジャーナリスティックな視点から同様の予測していたので、「メディア論的根拠」+「ジャーナリストの経験的感とデータ」の合体メカで、何も起こらなかった統一地方選第一弾でいいということにしてしまったのだ。まあ、あたったから、しかもほぼ完璧に当てたからいいようなものの、はずれたら、こりゃ、ヤバ勝ったなあと思わないこともないが。

で、このとき毎日の記者から一つ訊ねられたことがあった。それは「東国原知事は、なぜ、東国原チルドレンを指名しなかったのか」ということだった。そして、そのことを予測して欲しいと頼まれた。僕は、その理由にある程度、予想がついていたが、ここはチャンスと考えた。こちらの予測を本人に問いただして聞き出してしまえばいいのだ。で、実行した。

番組開始前の時間、僕はこのことを東国原知事に切り出した。知事の回答は「宮崎をよくするのは敵も味方もない、県民総力戦なので、協力してくれる人は誰でもいい」というもの。つまり、総力戦のためには、敵味方の区別をつけない、だからあえて「東国原チルドレン」のようなケンカを売るようなことはしないというということなのだ。

だが、僕は彼のこの語り口が当選以来の「定型」であることに気がついた。つまり、いつもの回答パターン、頭の中に録音されていて、反射的に出るいつもの回答であると感じられたのだ。いいかえると、聞かれて考えた様子がない。

こういう場合には1.それがある意味本当である、2.定型はあくまで定型という形式であり、ホンネ=内容は別のところにある。つまりホンネをカムフラージュするために定型を出す、の二つが考えられる。そして、このとき、僕は知事の発言がこの両方に絡んでいると判断した。

つまり、たしかに県民総力戦のために調整型の政治をやるという意味では1だが、東国原チルドレンを指名しないことで県議会議員に貸しを作り、懐柔するという意味では2なのである。そう考えると話はわかりやすい。そして、そう判断するのが東国原流としてふさわしいとこちらは判断した。

実際、選挙後県議会の様子は少し変わってきているように見える。県議選直後、地元UMKでは県議会議員と知事が生で夕方討論するという時間があったが、このとき知事VS県議会議員というトークの中で、終始知事が圧倒するという状況が生まれていたのである。たった一人で県議会を牛耳った東国原知事、恐るべしである。

さて、市議会選も終わった四月二十五日、初当選の若手議員四人が東国原派ともいうべき「愛みやざき」を立ち上げた。これは会派としては第三の勢力となる。もっとも、この会派を従えて県議会と渡り合うという図式もおそらく見られないだろう。これが、調整型、マイルドで実は強権の東国原流のやり方だからだ。

県議会が本格的に始まると次にどういう図式が現れるのか。注目だ。

さて、収穫は?

まあ、とはいうものの、こちらの方としても、それでは情けない。そこで、多少というか知事自身からいろいろと聞き出し、ネタにしようとがんばってみた。番組の中で、あるいは番組の途中での雑談でも、いろいろとツッコミを入れてみたのだ。以下、数少ない収穫を披露すると……

テレビ番組内の収穫1~テレビ、議会、二つの顔

これは番組のシナリオにもあったことなのだが、僕は知事に「あなたは東国原知事、それともそのまんま東」という質問をした。これははじめから打ち合わせにあったもの。県知事当選後、初めのうちこそ報道系の番組に多数出演していたが、次第にバラエティ系、たとえば”クイズ・ミリオネア”とか”行列の出来る法律相談所”とかに出演することが多くなったのだが、これは芸能人の虫が疼いて、テレビに出たがっているんではないか、ということにツッコミを入れてくれと言われたのだ。

いちおう、そのオファーは受けたが、さすがにこんなにジャーナリスティックなツッコミは安っぽくて嫌だったので、知事本人には「こういった噂が出ていますが、私はそうは思いません。メディアの使い分けのうまい知事のことなので、何らかの戦略があるはず。その意図についてご説明ください。もっともマネージャーが勝手に入れているだけかもしれませんが……」と付け加えて質問をした。

すると知事は、すかさず「自分はバラエティは知事で、議会ではそのまんま東でやっているんです」と返してきた。「んっ!これは、おいしい」さらにすかさずツッコミ、念押し、確認をしようと思ったのだが……巻きが入って、ツッコめず。う~む、もったいない。

テレビは東国原、議会はそのまんま東」の真意は?

おそらく東国原知事は、次のように言いたかったのではないか。

バラエティ番組では知事を演じて県産品の紹介など宮崎の知名度を上げるための人寄せパンダをやる。実際、バラエティ時の知事の対応はもっぱら受け身である。ツッコミを入れられて、焦るというパターンが一つの売り物になっている。「いや~、今、知事やってるんですけど~」ってなノリだろうか。

一方、県議会の時はこれと逆でもっぱら攻撃側に回る。つまり、そのまんま東の時に展開していた毒舌と相手の弱みにつけ込んでイジメるという芸。実際、これまで宮崎の県議会で県知事が追求を受けて、それに対して逆に質問し返して質問者側がフリーズするなんて光景はなかった。これをやっているというわけだ。また県議会議員は意外と知識が少ない。そのことを知事はよく知っていて、切り返し逆質問をするときには政治や宮崎という地域の知識をベースにしながらやる。これで相手はタジタジとなる。それは若手、下っ端のお笑いタレントにツッコミをいれていたときの姿、そのまんまなのである。(続く)

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