かつて若者は、全共闘(団塊)世代、モラトリアム人間、新人類というように、明瞭にイメージを描くことができた。だが近年、「いまどきの若者」は、ひとことで表すことが難しくなっている。実際、若者イメージは多様で、つかみどころがない……最近、僕はこういった「物言い」に疑問を感じている。
僕は、メディアから「新人類」という名称を与えられた世代。だが、当時、自分はこのイメージには該当しなかったし、新人類的な性格を持った人物も周辺には皆無だった。また、僕が大学などで関わってきた後続世代の若者たちも、メディア上に流布する若者像に反発するのが常だった。だから、若者が一元的でないのは今にはじまったことではない、という確信がある。
では、なぜ一元的若者像がこれまで流布してきたのか。メディア論的視点から考えてみたい。「いまどきの若者」と大人が言うとき、その「いまどき」さはメディアの提供する若者像に基づいている。これら若者のイメージは、大人たちが実際にそのような性格の若者に遭遇したというよりも、メディアが媒介したイメージを無反省に受容し、それを周辺の若者にあてはめたものだ。
たとえば、現在、五十代半ばの世代は全共闘世代と呼ばれた。だが全共闘運動に加わっていたのは、当該世代人口の1%未満の、都市大学に属する一部の男性にすぎなかった。にもかかわらず、学生運動に象徴される彼らの過激さが、世代全体の性格のように語られたのだ。
なぜか。それは全共闘がメディア的に写り映えしたからであり、そのイメージを社会が必要としたからに他ならない。
戦後、わが国の共同体は崩壊する。それによって若者たちは自己同一性確認のための足場を喪失した。一方、高度経済成長を契機に消費社会が進展。資本は新市場の開拓を余儀なくされる。
戦後、わが国の共同体は崩壊する。それによって若者たちは自己同一性確認のための足場を喪失した。一方、高度経済成長を契機に消費社会が進展。資本は新市場の開拓を余儀なくされる。
このとき創られたのが前述した一元的な若者像だ。つまり、若者にとっては共同体の代替となる立ち位置、資本にとっては新たなマーケットの対象として、メディア上に単純化された若者像が展開されたのである。「この商品を購入すれば、君も若者ですよ」と若者にプロパガンダし、それを若者たちが購入することで、若者のアイデンティティ確立と市場の活性化が同時に成立する。また、大人からすれば、こういった若者像に基づくことで、若者と関係を単純化することが出来る。だから、その実在など問題ではなかった。
こういった若者像は80年代末くらいまでは有効性を持っていた。だが90年代、一元的な若者像は消滅する。
情報化・民主化の急進によって、情報、モノが生活環境に氾濫し、あらゆる事象の価値観相対化が進行する。「若者らしさ」も個別化が進行。若者像が提示されても、即座に多様化、細分化されたイメージの中に吸収されてしまう。一元的イメージは同一化、商業的利得双方での有効性を失ってしまったのだ。当然、ニーズは消滅。若者が見えない状況だけが残された。
だが、よく考えれば、これは一元的イメージ出現以前の若者のとらえ方に戻ったに過ぎない。情報化は、若者を不可視化したのではなく、メディア上に流布し、戦後の一時期、リアリティを持ちえていた架空の若者像を相対化したのだ。なんのことはない。巡り巡って若者へのわれわれのスタンスを、振り出しに戻しただけなのである。
むしろ、若者は、どの時代でも常に多様。そして、悩み、恋し、自己同一性を求める点では一様、と考える方が正当だろう。
そう、はじめから「いまどきの若者」など、メディア上にしか存在しなかったのだ。
そう、はじめから「いまどきの若者」など、メディア上にしか存在しなかったのだ。