勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2007年01月

夢をかなえてくれるロボット?

この2004年から2005年にかけて、メディアは堀江貴文という実業家を中心に展開したといっても過言ではない。近鉄買収からはじまり、フジテレビ買収、そして逮捕。
さてホリエモン逮捕から一年が過ぎた。ホリエモン自身も拘置所から保釈され、現在裁判中。無罪を求めて徹底した戦いを続けている。そこで、今回は、あのときホリエモン騒動はなんだったのかを考えてみたい。

堀江という人物をメディアがこうまで取り上げたのは、いうまでもなく彼の行動全体が極めてパフォーマンスに富んでいたからだ。
堀江の展開するマネーゲームは旧態然としたプロ野球界、メディア業界に風穴を開けた。それによってメディアは彼に時代の旗手としてのイメージを付与する。新しい世界を開いてくれる四次元ポケットを持ったヒーロー、ホリエモンの誕生である。
ホリエモンは不況回復のシンボル的な存在としてメディアのスポットライトを浴びる。また自らメディアにも露出し、タレント性を発揮。挙げ句の果てには参院選に出馬、さらには口癖の「想定内」が流行語大賞ともなった。つまり、メディアの思惑通り、堀江は人々に夢を描かせる存在となったのだ。

だが、今度は一転して逮捕という事態に。しかし、これもまたダーティ・ヒーローとして、劇的なパフォーマンスを示したことになる。メディアにとってホリエモンはまさにおいしいネタ、カネのなる木なのだ。
しかし、こういった報道のやりかたは、報道の使命である「批判性」への大きな落とし穴になることを、メディアは肝に銘じておくべきだ。というのも、ホリエモンを取り上げ続けることは小泉経済改革の援護射撃になり、ジャーナリズム性を根こぎにされてしまうからだ。

実はローンダリング・マシンだった

ホリエモンの四次元ポケットの中枢はマネーゲームである。マネーゲームは情報を操作するだけ、しかも一般のサービス業のような肉体的な労働もほとんど介在することのないバーチャルな商売。だが、その情報操作に金銭というリアル=現物が付随しているというところが、他とは根本的に異なっている。そしてバーチャルでありながら、社会が認めてきたものでもある。ただし、そこには実体のなさがもたらす「うさんくささ」さが常につきまとう。だから、こわい。
再び上昇に転じた日本経済。しかし、それは小泉政権による自由競争の加速という、アメリカ式の経済政策によって可能になったものでもある。言いかえれば、少数の勝ち組が経済的な恩恵を受け、一方で大多数が負け組になる。そして、勝ち組になるもっとも手っ取り早い方法が、このマネーゲームに参加することだった。ただし前述したように、これはバーチャルゆえ、うさんくさい。
だが堀江がホリエモンとなることで、うさんくささは隠蔽される。堀江のヒーロー化によって、彼が携わるマネーゲームも夢を備えた「まっとう」な景気回復の手段にすり替えられた。一方、負け組には、堀江の活躍を代償的な満足とさせることで、現実から目を背けさせることに成功したのである。そのお墨付きを与えたのは、いうまでもなくメディアだった。
だが、堀江が逮捕されるとメディアは態度を一変、堀江バッシングのあらしとなった。だが、それによってマネーゲームは正当性失われたるどころか、むしろ強化されている。逮捕によって、マネーゲームのうさんくささがすべて堀江容疑者と彼の会社ライブドアに転嫁されたからだ。

つまり、持ち上げようが叩こうが、ホリエモン報道は小泉経済政策の象徴とも言えるマネーゲーム正当化の手段として機能した。ホリエモン、実は小泉経済政策とマネーゲームのうさんくささをメディアを介して消滅させるローンダリング・マシーンだったのだ。
そして格差社会はますます加速。勝ち組は高層ビルの豪華な住居で人生を謳歌し、フリーターや契約社員は、時給単位の単純労働を続けるという状態が正当化され続けている。

メディアはホリエモンを利用してオーディエンスを獲得した。だが、それは結果として小泉政権の経済改革を擁護することになってしまった。つまり小泉というお釈迦様の手のひらで踊らされたのだ。メディアはそのことに気付くべきだろう。残念ながらそのことにメディアは気付いていない。また、なんかあったらホリエモン登場と言うことになるのではなかろうか。

ホリエモン、実は小泉の申し子。ドラえもんとは違って、取扱注意のヒト型ロボットなのだ。

メディアの現実構成機能によるメディアイベントの実現

もうひとつは、これは今回の選挙に限ることではないのだが、メディアが現実を構成してしまうという機能を備えていることだ。言い換えれば、選挙戦についてのメディア報道が選挙を左右してしまうのである。

近年の選挙報道において必ず用いられるようになったもの。それはデータによる予測である。以前は識者や口コミなどを資料に戦況を占うのがメディアの一般的なやり方だった。だが、これだとあくまで憶測の域を出ることはない。それゆえ情報にリアリティは薄いと言わねばならなかった。マスコミ論で言えば限定的な効果しかなかったといえる。

ところが最近の選挙報道では識者が予測するよりもデータが提示されるのが常だ。このデータは世論調査的なもの。各マスメディアはその内容を明らかにしていないが、報道自体はこれらデータに基づいた、その時点で正確なものだ。たとえば期日前投票においても出口調査がおこなわれていることをご存知だろうか。だから選挙戦の進展に伴って語られる各候補の情勢についての情報は数値つきになると同時に、その論評も、その時点で、おおむね当たっている。

そして有権者はそれら正確なデータをチェックすることで、選挙前に選択を迫られることになる。「今こうなってますけど、どうします?」というわけだ。そして、新たな決断をすると、今度はそれに基づいたデータがさらにメディアで報じられる。有権者は再び選択を強いられることになる。で、こんなイエス・ノー・テストみたいなことを続けていくうちに、知らず知らずの間に論点(この場合は、候補者)が絞られていくのである(ちなみに論点の絞られるメカニズムについては1月22日付の「ぶざけんなWeb2.0~Google社会がもたらすもの」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/45859441.htmlで展開されているものと同じなので、そちらを参照されたい。こちらではGoogleが直接民主制による全体主義が形成されることを指摘している)。これが、だんだんと票が一方に傾いていく仕掛けである(石田英敬なら「象徴的貧困の結果」と言うだろう。僕はこの言葉は嫌いなのだけれど)。ちなみに、こういったメディアによる誘導(やっているつもりはないが、結果としてやっていることになるという誘導)を危惧して、選挙前の予測報道を禁じている国もある。

壊滅的な負けっぷりを見せた、自民・民主推薦候補の持永

さて今回このメカニズムで割を食ったのが持永哲志だ。持永は自民・民主推薦に加え、県農民連盟や県商工政治連盟などの有力経済団体から推薦を獲得。しかも川村より早く立候補しており、こういったバックボーンを踏まえれば有力候補であったハズだ。そして川村が立候補しなければ、東が立候補しなければ、今頃は県知事のハズだ。実際、当初は自民党推薦の分裂があったりして川村と持永の争いと報道されていた。それが、いつの間にかそのまんま東善戦となり、あれよあれよというまに川村と東と対決かと言うことになり持永は脱落させられ、最後は東かもということになり、開けてみれば東が大勝した。これは、データを見、そしてメディアが報道したことによって「持永は×」という印象が定着してしまった結果だろう。持永支持だった有権者は「どうせ×なら」と考え、川村か東に乗り換える。あるいは投票自体をあきらめる。こんな感覚がどんどん支持者たちに広がり、結果、持永は県外へと消えていった。選挙戦終盤、持永陣営はすっかりやる気をなくしていたという。

つまり、持永は選挙前にメディアによってふるいをかけられ、落選当確を打たれてしまったのだ。そして、メディアによるこのスパイラルは止まることを知らなかった。持永の負けっぷりたるや散々たるものになってしまったのだ。有力候補どころか、下手すると泡沫候補状態。今後の政治生命に重大な支障を来す結果となってしまった。これは東の予期せぬ圧勝のちょうど逆の現象。いわば「逆そのまんま東状態」。これもメディアのいたずらとも言えるのだ。考えようによっては、持永は東とメディアによる「祭り」の犠牲者だったといえないこともない。

もっとも、メディア自体は仕掛けているつもりはないだろう。だが、結果として選挙結果に大きな影響を与えてしまっていることも確かといわねばなるまい。

ただし、この機能が十全に左右するためにはメディアが大きな力を持たなければならない。それは言い換えれば、有権者が頻繁にメディアにアクセスするというモチベーションが喚起されることが条件となる。そのモチベーションが、前述した中央と地方によるそのまんま東県知事選報道の循環である。つまり、そのまんま東であったがゆえにメディアによる現実構成機能がうまく作用してしまったというわけだ。

「祭り」を起こしたものが勝ち、の時代の出現

こうやってみてみると、そのまんま東にはものすごい運と追い風が吹いていたと言うことになるが、これはいうならばメディア・イベントというべきものである。こういったサプライズが今後も十分に起こりうると考えられるのが情報化社会なのだ。いいかえればメディアを使って「祭り」を起こしたものが「勝ち」となる時代なのである。

一昨日(2月23日)、そのまんま東改め東国原英夫県知事が県庁に登庁した。公用車でなく自家用車のワゴンの中から現れた新知事の身なりはディスカウントストアで購入したとされる作業着姿だった。その姿に県庁職員は歓声を上げたという。さて、選挙戦のプロである東知事、県政のプロとなれるだろうか……。

昨日、再び宮崎で鳥インフルエンザの疑い。東国原知事は早速、日向市の現地に赴いた。曰く「風評被害が心配だ」、なかなかポイントをついたコメント。まずは合格点と言うところか。そしてテレビは鳥インフルエンザの報道と称しながら、もっぱら東を大きく扱っていた(後ろの画面で鳥や建物より東を大きく写しているものもあった)。こうなると先々週、清武町で起きた鳥インフルエンザより、なんか事態が「軽傷」に見えてくるから不思議だ。つまり「鳥インフルエンザの恐怖」ではなく、むしろ「鳥インフルエンザに真摯に取り組む東新知事」という報道に見えるのだ。それは、あたかも東ワンマンショーのようでもある。どうも東は運がよいらしい。ついでだから、この運を宮崎に運んできてくれないものだろうか、と願うのは僕だけだろうか。

(次回からは「祭り」をキーワードに現代社会を分析していく予定。第一弾は「ホリエモン逮捕一周年記念特集」)

「祭り」は東だけでは起こらない

昨日に続き、そのまんま東宮崎知事選祭りメカニズムの分析をおこなっている(計三回を予定)。前回は東それ自身のパフォーマンス=必要条件に注目した。今回は東の周辺要因=十分条件について考えてみたい。ただし、ここでの議論はメディア論的分析を主眼としている。だから知事選にあたっての自民党県連の分裂であるとか、官製談合事件のケジメとしてのしがらみ打破とか、究極の保守県における政治厭世観といった一般の新聞が取り上げてきた内容については、あえてクローズアップはしない(これに関しては、各種マスメディアがさんざんやっているはずだ。東の勝利は分裂の隙間をかいくぐったとか、唯一のしがらみのない候補だとか)

今回の宮崎知事選祭りは「そのまんま東」というそれなりに知名度があるタレントがやったからこそ、そして周到な選挙戦術と芸人パフォーマンスがあったからこそ「祭り」が起きることが可能になった。たとえば、当たり前の話だが、仮にこれを書いている僕が選挙に出て、全く同じ選挙戦術をやったとしても決してこんなに票を集めることが出来ない。いやいや、全然出来ない。

ただし、そのまんま東とて、上記の要因だけではだけではやはり「祭り」は発生しない。前回指摘しておいたように、東の知名度とパフォーマンスの巧みさは「必要条件」でしかないのだ。

では「十分条件」とは何か。それは東をめぐるメディアの反応にある。

中央と、地方による有権者の囲い込み

宮崎ローカルの有権者による東への思いは中央と地方、二手からの誘導によって啓発されることで発生したのではなかろうか。

まずローカルの情報。そのまんま東出馬ゆえ、地元でももちろん注目はされる。ただしその時点で、有権者は疑心暗鬼というか、イロモノ扱い。だからローカル情報だけでは祭りが起こることはない。ところが、東という知名度の高い芸能人であるゆえ、地方よりは中央が注目する。で、東はローカル曲や新聞の地方面ではなく、中央局や新聞の全国面で取り上げられ始める。とりわけワイドショーなどがこれを取り上げる。一方、宮崎人とて、最もアクセスするメディアはテレビ、しかも中央の情報だ。たとえばローカルな情報など、テレビ、ラジオにかかわらずスルーされてしまうのがオチだ(ちなみにローカル情報は全然人気がないのは宮崎にかかわらず全国的な傾向だろう)。

ところが、そのまんま東ゆえ、中央マスメディアが宮崎の県知事選を取り上げる。となると、いつも見ているテレビに宮崎が映ることになる。で、思わず見てしまうと、そこで取り上げられている候補は川村でも持永でもなく、そのまんま東なのだ。ローカルな人間は悪かろうが良かろうが全国版で取り上げられることを喜ぶ。年明けの鳥インフルエンザ事件にしても、宮崎が、そして清武町がクローズアップされたことを「宮崎が全国に知られた」といって喜ぶといった人間がいるといった具合なのだ。ということは、東の出馬による宮崎の中央での露出は、地元宮崎人の地元意識をもりあげてしまうのだ。(ちなみに中央では宮崎県知事選は、少なくともそのまんま東が当選するまでは注目されていない(当選してからはスゴイことになっているが)。県外にいる僕の知り合いや教え子たちは宮崎県知事選がおこなわれていることは知っていたが、候補者は東以外、誰も知らなかった)。

まあ、これは中央に対する地方人のコンプレックスに触れたということでもある。「おらが県も全国区」という意識で、こういった中央配信による宮崎情報に頻繁にアクセスするようになる。で、先程述べたように、その時、メディアに登場するのは”そのまんま東”。そして同時にその時、初めて「出直し選挙」「しがらみのない選挙」といった今回の選挙の争点が認知され、選挙自体に関心が集まる。また、イロモノ扱いだった東への認識が、中央コンプレックスとの奇妙な融合を受けて高まっていく。しかもポジティブに。「宮崎を有名にしているそのまんま東はすばらしい。しかも唯一、しがらみがない」という、具合に。

つまり、祭りを盛り上げているのは中央のメディアなのだ。(第三回へ、続く)

そのまんま東、宮崎県知事当選祭りのメカニズム(上)


さて、今回はなぜ東がこんなにも「祭り」、あるいは「劇場」(小泉劇場とか新庄劇場のこと)をこの選挙で起こすことが出来たのか、これについて考えてみたい。題して”そのまんま東宮崎県知事当選祭りのメカニズム”。二部構成で、第一部は選挙戦のプロとしてのそのまんま戦術=祭りのための必要条件、第二部はメディアによるお祭り化=祭りのための十分条件が起きるまでおおくりする。今回は、その第一部。

東は選挙戦のプロだった

まず、これはおさらいになるが、東が選挙戦術については完全なるプロだったこと。同じことばかり書いてはつまらないので、少々内容を変えておく。

下げ、上げメカニズムで人気沸騰

東は「政治とお笑いは似ている」といったが、その通りだ。双方ともパフォーマンスがある意味かなり重要なファクターとなる。ということは、東自身が発言している「芸能界で27年間生き抜いてきた」ことは伊達ではない。とにかく演説や講演は見事そのものなのだ。

東には、淫行問題、暴力問題、フライデー襲撃事件時、軍団の他のメンバーの中で、東だけが現場の講談社編集部内でそのまんまで何もしなかった問題など、ネガティブ要因がまずあって、有名人だけれど有権者は「恥さらし」「お笑いのバカ」と見ているという前提があった。つまり見下している。ところが、演説では笑わず、くそまじめ、マニフェスト完璧、政策具体的で展開する。なおかつ自分のネガティブ要因を自ら真っ先に発言し、ここだけはお笑いとしての笑いをとる。「98年には不祥事(淫行事件で事情聴取を受けたこと)を”させていただきました”」というギャグなどは典型。この発言の後、東は深々と頭を下げる。と会場からは笑いとともに嵐のような応援の拍手が。そう、この男はよく知っているのだ。そうすることで各種の不祥事が相対化=免罪されることを。と同時にマジメな態度が「結構ちゃんと勉強している」「けっこう、あいつはやる」という評価に突然変わっていく。おばちゃんたちも「そのまんま東は女ったらし」みたいに言っていたことをすっかり忘れて、今度は「これまではダメな人だったけれど、よく頑張っている」と、ど~んと評価をあげていく。東がもともと見下げられている立場から始めるがゆえに、マジメ、自己恥さらしというパフォーマンスはものすごく信用を上げるのだ。これが普通の人だったらマジメはマジメでしかないので、東と同じことを話しても説得力がない、ということになる。

ドブ板選挙戦は田中角栄ばり

田中角栄、ハマコー、鈴木宗男ばりのドブ板選挙戦術も秀逸。とにかく朝マラソンを欠かさなかった。で、握手、握手。とりわけおばちゃんキラーとしては相当の腕を持つ。ウチのカミさんの目撃談をひとつあげておこう。

そのまんま東の選挙カーが道を練りあるく。スピーカーから流れるのはウグイス嬢(とはいうものの50過ぎのおばちゃんだ。この辺も周到だ。若いウグイス嬢なら「淫行問題」を彷彿させるからだ)の声。すると通りの家の二階のベランダから主婦、やはりおばちゃんが選挙カーへ手を振った。いや厳密に言えば手でなく布団たたき(「騒音オバサン」のもってたやつね)を振った。その瞬間、東がクルマの窓から身を乗り出して、両手で手を振りながら「ありがとうございます」と絶叫。さらに、クルマを降りて有権者を次から次へと握手。このパフォーマンスに周辺にいた人間は一気に飲み込まれる。こんな芸はやっぱり芸能界でなければなかなか鍛えられない。

十分な仕込み

ただし間違えてはいけない。くどいようだがそのまんま東はプロだ。これらはすべて計算済みである。いくつか例を挙げよう。早稲田大学第二文学部時代から政治に関心を持っており、卒論は選挙に関するもの。卒論作成にあたっては宮崎の県議会議員選挙戦で候補の一人に密着し、選挙カーに乗ってフィールドワークをおこない、それを参考にしながら卒論を作成していたらしい(その時の候補は、なんと落選したのだが)。その後、二文から政経学部に入学したことはご存知の通り(中退したが)

また、マニフェスト作成にあたっては専門のブレーンを二人つけている。だから数十項目に及ぶマニフェストなんてものが作れたのだ。とはいっても、かなり勉強はしており、それらのマニフェストについて一通りの説明をすることは十分に出来る周到さを用意してはいた。もっとも、芸能界だったら、これは台本おぼえるようなものだろう。

東の選挙戦はSMAPの売り方に似ている!

つまり、そのまんま東の選挙戦戦略は、芸能界SMAPと同じ戦略と考えていい。SMAPはアイドルである。そしてSMAP売り出しの頃のアイドルの条件は「素人っぽいこと」。ようするに、いちおう何でもやるが、すべて下手くそ。芸下手、歌下手、踊りだけ。受け答えもワンパターンのバカ、というアイドル様式というのがあった。まあ女性アイドルだと、この図式をダメにしてしまったのは80年代前半の松田聖子だったが、男性アイドルはこのパターンが90年代まで持ちこたえていた。

で、SMAPもこのパターンで売り出した。実際、歌は下手だった。ところが、実際は10代の前半から仕込まれたプロ集団。だからドラマやバラエティに出るとそこそこの演技やパーソナリティを発揮する。ところがオーディエンスはSMAPをアイドルのカテゴリーで認識しているゆえ、素人芸しかできないと考える。そんなとき彼らのパフォーマンスは、その落差からスゴイものに見えるというわけだ。さらにSMAPはいつまでたっても歌が下手であることによって、この落差をずっと維持している。最近は解散のウワサがあるが、この落差を維持するためには解散すべきではないだろう。

というわけで、SMAP同様、素人であるフリをするプロ、そしてその選挙戦バージョンが、そのまんま東だったのだ。

(最後に、やはり、くどいようだが、これは「政治のプロ」であることとは、原則的に関わりはない。だから能力は全く未知数であることをおことわりしておく。後半へ続く)

バラ色のWeb2.0? Googleはすばらしい?

 インターネット元年から12年。ネット人口は現在、7000万人。ネット・インフラも充実し、利用者の多くが光ファイバーによる常時接続となった。ネットは日本人にとって、テレビと並ぶ必須のメディアとなりつつある。
 ネットの使い方も変容を遂げつつある。メールの送受信、サイトの閲覧といった受動的な利用から、ブログの開設、検索といった能動的利用の比重の高まりである。とりわけ検索サイトの利用頻度の上昇は著しい。中でも、最も利用されている検索サイトがグーグルだ。
 グーグルは世界中のウェブサイト情報のすべてを一定間隔で機械的にチェックしている。そしてわれわれがグーグルを使って検索すると、世界のサイトから該当項目のあるページすべてがランキングで表示される。人気順、より正確にはリンク数の多さに従って該当ページの冒頭部分が表示されるのである。

直接民主制による衆愚政治の出現か?

 このような検索システムは、一般に支持・流布される情報から個人的に知りたい情報まで、客観的かつお手軽に引き出すことを可能にする。ネット上の直接民主制に基づく集合知が実現すると同時に、趣味的・瑣末的な情報へのアクセスまでフォローするという環境を用意するのだ。こういった環境はバラ色の未来をもたらすとされ、ウェブ2.0という名称の下、手放しで賞賛されている。だが、事態はそんなに楽観的なのか。

 われわれの情報検索のやり方を振り返ってみよう。検索窓にキーワードを入力すると、瞬時に数千件という結果が表示される。だが、次にするのは、最初の1ページ目の、せいぜい上位四項目ぐらいをチェックするだけ。あとはほとんど無視する。ということは、必然的に人々が検索すればするほど支持される情報とされない情報の格差が広がっていくことになる。これはグーグルだけでなくヤフーなどのポータルサイトのホームにあるヘッドライン情報へのアクセスでも同様だ。

 こんな利用法が一般的なのだから、ここに直接民主制が生まれるとは言い難い。
 現代人はもっぱらメディアを介して社会とのつながりを実感する。だから、自分が支持する情報が上位にないと、社会との関係が遮断されたように感じる。ならばあえて反論せず、素直に趨勢の意見に従おうという心性が生まれる。寄らば大樹の発想が一般化するのだ。

 それでは個人の嗜好や思想が抑圧されてしまいそうだが、ちゃんとガス抜きが用意されている。やはり検索で好みにあった情報を引き出し、それを紡ぎ合わせて充足すればよいからだ。つまり、個人の好みが趨勢の意見に合致しなくても、趣味的・瑣末的な情報という、おもちゃへのアクセスと消費で十分満足できるのだ。趨勢の意見に異議申し立てなどするより、私的領域でよろしくやっているほうが気が楽、ということになる。

快適に家畜化される現代人

 かくして人々は、社会の情勢については検索サイトの上位項目のコメントに完全に従順になり、あらかたのことはチェックするだけで無関心となる。一方で、検索によって私的生活の領域を徹底的に肥大化させていく。かくして世論や常識はどんどん一元的に収斂していく。これでは直接民主制の集合知どころか衆愚政治の出現だろう。

 かつてG・オーウェルは小説『1984』の中で、ビッグ・ブラザーの監視による世界の一元的な管理というペシミスティックな未来を提示した。だがパソコン、インターネットの出現はこのような発想が誤りであり、コンピュータの偏在は、むしろ人々の自由の獲得や行動の解放を促すという論調をもたらした。しかしながら、行き着く先はやはり一元管理化された超管理社会なのではないか。
 しかも人間は、むしろこれを幸福で快適な環境として受け止めさえする。超管理社会は、グーグルに象徴されるようにあなたの牙を抜いた上でやさしく包み込む。つまり人間を家畜化するのだ。

新型ビッグブラザー、Googleシステムの誕生か?

 こうしたグーグル的な管理は、さまざまなメディアを介してすでに稼働しているように見える。一昨年の衆院選での自民党の地滑り的勝利、憲法改正論議の活発化、飲酒運転の厳罰化、いじめバッシングの過熱。いずれもいつのまにか議論が一カ所に収斂していった結果だった。この流れは日本人の横並び主義が生んでしまった戦前の翼賛体制を彷彿とさせる。出現するのは直接民主制モドキによる全体主義という、相反する二つのイデオロギーが奇妙に合致したおぞましい世界に他ならない。

 こうした管理システムの家畜とならないために必要なこと。それはシステムの快適性に疑問を持ち、牙を磨き続けることだろう。惰性に流されてそれを怠れば、あなたは快適さと交換に魂を引き渡すことになってしまう。そのことを肝に銘じておくべきだ。

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