勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2007年01月

テーマ性が破壊されたテーマポート

一方、テーマ性をよく踏襲したポートも、よく考えるとおかしいところがある。最もテーマ性がはっきりし、煮詰められているのはアメリカン・ウォーターフロントだろう。ニューヨーク・マンハッタン南部のフルトンマーケットあたりをシミュレートしたピアがそのメインで、周辺に豪華客船コロンビア号、そしてマンハッタンの真ん中をイメージさせるホテル・ハイタワー(タワーオブテラー)、ブロードウェイ・ミュージック・シアターが、さらにはエレクトリック・レイルウエイがあり、ある意味、金ぴか時代(20年代)のニューヨークの雰囲気が良く再現されている。ポート内にあるレストラン、ニューヨークデリではニューヨーク名物ベーグルのサンドなんてのにもありつける。

ニューヨークに日本食レストラン、ここにはちょっとした詐術が……

しかし、ここにもこれはヘンというものがある。レストラン桜とスタンドのリバティ・ランディング・ダイナーだ。前者は日本食テーブルサービスレストラン、後者はなんとすしロールというちらし寿司とみそ汁(正しくはみそクリームスープ)を販売している。レストラン桜はフィッシュ・マーケットを改装して作った日本人移民のオーナーが経営するレストランという設定。提供する料理はてんぷら定食といった完全なる和食。まあ、魚自体は確かにフルトン・マーケットは魚市場だったので、おかしくない。しかし和食はヘンだ。20年代にそんな店なんか、ない。

つまり、これはこういうことだ。ポートのテーマ自体は20年代のニューヨーク。しかし、現在ニューヨークが寿司やだらけなのは今や有名な話。だからニューヨーク名物は寿司になっているわけで、ということは時代的には完全におかしいのだけれどニューヨークと言うことでおかしくないと言うことになる。まあ、日本人でもニューヨークに行ったことがあるのは、そんなにいない(よくわからないがそれこそ20~30人に一人くらいといったところだろう)、だからニューヨークつながりでいいことにしよう、というかなりお気楽な設定なのだ。

中東もアジアもターバンで統一!

ちなみにオマケをひとつ加えればアラビアン・コーストのレストラン、カスバ・フードコートで出されるものはインド・カレー、そしてナンだ。おいおい、それはアラビアではなくてインドですよ。おそらくこれはターバンつながりだろう。ターバンはインドのシーク教がアタマにつけているモノ。でもわれわれのメディア的なアラビアのスタイルはこのインドのシーク教のターバン姿?(明治キンケイインドカレーのせいだろう、きっと。いやタイガージェットシンかも?)もう滅茶苦茶、インド人もビックリだーっ!えーい、ついでに上げておこう。火山のミステリアスアイランドの中にあるボルケニアン・レストランは中華レストラン。なんで火山と中華ってなことになるのだが、これは火(ハオ)つながりね。

もうこうなるとポートのテーマとひとつでも話がつながりゃなんでもいいということになる。そう、これってディズニーランドがだんだんテーマ性を破壊していくときにやったやり方、つまり串焼きおにぎりや、ラーメンを販売したときのエクスキューズと同じなのだ。

今や理屈付けは「ナンデモアリ」

でもって、もうどうでもいいやって、感じで売っているのがミステリアスアイランドのリフレッシュメント・ステーションで人気の餃子ドッグ。これは餃子の形をした縦長の肉まんなのだが、ミステリアス・アイランドの真ん中においてある映画「海底二万マイル」に登場する潜水艦ノーチラス号と形が似ているからOKなのだ。それからポート・ディスカバリーでの入り口にあるシーサイド・スナックで売っているうきわまん。これもまんじゅうで浮き輪の形をしているのだけれどこれは隣に浮き輪の形をしたアトラクション、アクアトピアがあるからというわけで、ひとつでもつながりがあればナンデモアリというのが、テーマパークのようでテーマパークでなく、テーマパークでなくテーマパークのディズニーシーの特徴と言うことになるだろう。

しかし、この滅茶苦茶解釈はこんなことでは止まらない。2002年の夏だったか(ちょいと記憶がトホホですが)夏休みシーに浴衣で行くと景品がもらえるというイベントがひらかれた。多くのゲストは、おそらくユニクロ製の3500円くらいの浴衣を着てメディトレニアンに繰り出したのだった。「う~ん、もうわか~んな~い」の世界だが、これらのテーマぶっ壊しコンセプトは、なぜか大いにウケ、ディズニーシーのアイデンティティを形成し始めたのである。東京ディズニーランドと東京ディズニーシー。二つは全く別物である。そしてゲストたちの指向性も異なりはじめた。それはランド派とシー派ファンを出現させたのだ。。

ポストモダン、東京ディズニーシーの出現


これって、テーマパーク?

2001年9月ディズニーランドの隣に新しいテーマパーク東京ディズニーシーが誕生する。それはある種異様なテーマパークの出現であった。一言で言えばテーマパークであってそうでなく、テーマパークでなくてテーマパークといったとらえどころがない、それでいて独特な魅力を放つ空間の出現だったのだ。

東京ディズニーシーのコンセプトはもともとはロスの海岸沿いにディズニー社が建設を計画していたもの。ただし実質的にはそちらのコンセプトとはかなり異なっていた。ディズニーシーは海洋博物館や研究センター、そしてテーマパークからなる施設。一方、東京ディズニーシー(以下”シー”)はテーマパークの部分だけ、しかもパーク自体もシーとは少々趣を異にしている。

ちなみに東京ディズニーランドの経営母体であるオリエンタルランド社は第二テーマパークとして、当初、フロリダ、ウォルトディズニーワールド内にある映画のテーマパーク・MGMスタジオと同じものを建設する予定だったが、ハリウッド色濃いこのテーマパークはハリウッド的世界に馴染みの薄い日本人には集客効果が見込めないと判断。そこで実質的にジャパン・オリジナルとなるシーの誕生となった。

分裂病的なテーマパーク

シーはその名の通り海をテーマにしたテーマパークでディズニーランドでは「ランド」に相当する六つのテーマポートから構成されている。と、このように考えると、「ディズニーランド、つまりランド=陸に対してシー=生みのテーマパークというわけか」と思いたくなるのだが、だいぶ様子が異なっている。一言で言えば、ディズニーランドはウルトラ・モダニズムとでもいうべき強迫神経症=フェチ的なテーマ性の徹底によって構築されたモノなのに対し、ディズニーシーはもはやポスト・モダニズム、分裂病/統合失調症的な色彩に満ちた空間が形成されているのだ。

その典型がポートのひとつメディトレニアン・ハーバーだ。これは入り口を入ったところから海を囲んだかなり広いエリアを占めているポートだが、テーマはメディトレニアン=地中海。えっ?地中海って漠然としてるよ、具体的にはどこなの?……。どこでもありません「地中海」です。でも地中海の南岸とか東岸というのは省かれていて、全体の色調はイタリア・ベネチア的風景なのだ。まあ、それに合わせて周辺のレストランではピザやティラミスなんかを販売している。ただし、ここでおかしいのはポップコーンがあっちこっちでいろいろと売られていることだ。ヨーロッパとポップコーンは関係ないはずなのだが、要するにディズニーランドはポップコーンという印象が日本人についてしまったので、こっちのシーにもということだろうか。パーク内では6種類くらいのポップコーンを食べることが出来る。もちろんそれようのプラスチック製・首からぶら下げるバスケットもディズニーランド同様用意されている。

また海側、つまり入り口から入って向かって左にはディズニー・エレクトリック・レイルウエイが見える。これはアメリカの路面電車だよね。さらにさらに中央先には、その先には火山があって、センターオブジアースのライド=コースターが落ちていくのが見える。そして中央のシー=海では昼と夜にディズニーキャラクターが登場するショーが繰り広げられる……完全に滅茶苦茶な風景なのだ。それは地中海でもなんでもなく、強いて言えばディズニー的風景とでも言うべきモノ。ここには取り立ててのテーマ性は感じられないが、このごちゃごちゃ感がかえって妙な雄大さを感じさせ、不思議な高揚をゲストに抱かせるのだ。もう具体的なテーマ性を飛び越えて、ディズニーリテラシーを吸収したモノだけが理解できる抽象的なディズニーというテーマ性とその世界の背景でつねにちらついているヴァーチャルなヨーロッパ的風景(美女と野獣とかシンデレラとか、白雪姫とか、ピーターパンとかとにかくこういうアニメの背後にある「欧州」なイメージ)で彩られているのである。

ディズニー世界のデータベース空間

そう、ここはすべてのテーマを超越した、メタレベルでの”ディズニー世界”が繰り広げられているのだ。しかも、それは単にディズニークラッシック作品の世界と言うだけでなく80年代以降、巨大企業となったディズニーカンパニーのさまざまな事業のイメージすべてがぶちまけられた世界なのだ。言い換えれば、ここはディズニーから、いくらでもディズニー好きが物語を引き出せるデータベースとしての空間が形成されているのである。(続く)

そのまんま東現象、小泉劇場、新庄劇場、アルコール自粛祭りといった一連の「祭り」はフラッシュモブの大型判である「お祭り党」によって起こされるいたずらである。

どこにでも出現するお祭り党

「お祭り党」は党といっても組織ではない。むしろ完全に匿名の人間たちがおこなう組織化されない群衆行動だ。そして「お祭り党」は政治的事項だけにその影響を行使するわけではない。それはホリエモン礼賛、ホリエモンバッシング、ワールドカップ日本チームへの熱狂、嫌韓、嫌中、イラクボランティアの「自己責任」バッシング、新庄劇場の演出、アルコール自粛の徹底、イジメ撲滅キャンペーンなど、いろんなところで、しらずしらずのうちに「結成」される。ただし、目的は祭りを起こして、起こした匿名の主催者として自らの力の行使が社会を動かしたことを実感することにしかない。逆に言えば、これが満たされれば、党は瞬間的に自然解散する。

そして「お祭り党」が祭りのきっかけはメディア情報だ。メディアの記号性の高い情報に飛びつくのだ。このことは前記の項目がすべてメディアがらみであることを踏まえれば、明白だろう。ということは、うまくメディアを操り、自分の都合のよいように祭りに火をつけることのできた者が、この「お祭り党」の総裁に祭り上げられるのだ。ここでは、この総裁を担う能力がある者を魔術師と呼ぼう。

僕が知っている魔術師を上げれば、まずは長島茂雄である。とにかく一言言っただけでお祭りが起きる。次にホリエモン。そしてここ二三年は小泉純一郎、そして新庄剛である。これら魔術師の違いは魔術が白魔術であるか黒魔術であるかだ。長島、新庄は白魔術、小泉は黒魔術、ホリエモンはどちらでもなく、強いて表現すれば灰色魔術といったところか。また、本人主導の魔術師か、メディアが勝手に魔術師に祭り上げるかでも微妙に二違っている。本人主導は小泉、新庄。メディア主導は長島。その中間形態がホリエモンだろう。

そして、そのまんま東である。彼もまた魔術師として「お祭り党」の総裁に上り詰めることに成功した。東を取り囲んでメディアが中央、地方で大騒ぎ、それが県知事選挙の圧勝につながったのだ。だが、本人のパフォーマンスも相当なもの。だから東の場合はメディア主導の本人主導のハイブリッドといったところだろうか。ちなみにお祭り党は若年層が多いと思いがちだが、もはや必ずしもそうなってはいない。宮崎県知事選の場合、出口調査の結果を見ると60代から下はすべて東を最も支持していたからだ。どーせだから、そのまんま東改め東国原県知事には、このまま宮崎県の「お祭り党総裁」を続け、宮崎県人担ぎ続け、結果として活性化してくれればよいのだけれど。

さて統一地方選や参院選はどうなるか

で、最初の話題、次回の参院選はどうなるかだ。自民党は衆院選で獲得した支持層の崩れを予想し、これを防ぐ手だてを考えようとしているが、それは現状では「ない」と言わざるを得ない。安倍には自民党総裁だが、小泉のような「お祭り党」総裁にはなる資格がないからだ。というのも前述したようにお祭り党員が要求するのは、日常生活の退屈さを紛らわせることと、一ビットの自分に力があることを感じさせること。阿倍の選挙戦術ではこれは不可能だ。安倍にはワンフレーズ・ポリティックスもメディアへのリップサービスも、カメラを見つめて決め打ちポーズもない。つまり、お祭り党総裁のための必須条件であるメディア的なパフォーマンス能力が決定的に欠けている。声を大にして絶叫するようなパフォーマンスでは、ダメダメとしかいいようがないのである。

とはいうものの民主党側にも「お祭り党」総裁候補はいない。では、参院選挙はどうなるか。答えはカンタンだ。お祭り党党員は、おもしろくない、つまりお祭りが出来ないのでほとんどが選挙を棄権する。そして、選挙はこれまでには無かったような低得票率となる。そのなかで盛り上がりのないまま選挙が実施され、さしたる変化もないような結果が出るだろう。

あるいはひょっとしたらこんなシナリオも考えられるかも知れない。安倍政権のていたらく(といっても小泉政権のツケなので、安倍首相はある意味では"お気の毒"ではあるのだが)に愛想を尽かしたメディアが、いっせいに「今度の自民党はダメだ」と言い始めるようなことがあるとすれば、これは「お祭り党」の出番となる。「自民党ダメさ加減を徹底してやろう」と、一ビットの欲望がむっくりともたげ、自民党以外に投票に行くと言うこともあり得る。まあ、この時、同じくらいていたらくの民主党に入れることはないだろう。むしろ共産党とか社民党とか泡沫系が躍進したりするなんて遊びをしでかすかも知れない。

そう、社会を動かすには、自民党よりはるかに大きな「お祭り党」の支持を得る必要があるのが、ポストモダンの時代なのだ。だが、これって、そーとーアブナイ気もするのだが……。

参院選を不安視する自民党

「小泉政権からバトンを渡された安倍内閣の支持率がジリ貧だ。このままだと、参議院選には敗北してしまう可能性がある。対策を練らねば」というわけで自民党からは、参院選に向けた何らかの選挙対策を施す必要があると声が挙がっている。

自民党が前提にしているのは2005年の衆議院議員選挙、いわゆる郵政民営化選挙で獲得した浮動票層を取り込めなくなるという懸念だ。しかしながら、この懸念は勘違いではなかろうか。これは浮動表層がそのまま自民党をいまだに支持しているという思いこみからくる勘違いだ。

もともと自民党はじり貧で確固たる支持基盤などたいしたことはないのだ。つまり前回の衆議院選のあの大量得票は自民党支持でもなんでもないといいたい。
では、300にも及び当選を出したあの無党派層はなんなのか。僕はこれを「お祭り党」と呼びたい。お祭り党は既成の支持政党のように基盤を持たないし、状況によっては選挙にも行かない。でもお祭りを察知する感度が高く、「これがお祭りだ」と察知すると、即座に「お祭り党」を結成して、選挙に甚大な影響を与える。ただし、お祭り党員は選挙運動に加担しているわけでも、徒党を組んでいるわけでも、党員であることを自覚しているわけでもない。われわれの生活空間のあちこちに一人寂しく潜んでいるのだ。

フラッシュモブの大型判?

「お祭り党」ははハワード・ラインゴールドが指摘したフラッシュ・モブの大型版だ。フラッシュ・モブとはウィキペディアでは「インターネット、とくにEメールを介して不特定多数の人間が公共の場に突如集合し、目的を達成すると即座に解散する行為」と定義されている。有名なのは”吉野家祭り”や”マトリックス・オフ”。前者はサイト2ちゃんねるの掲示板で示し合わせた2ちゃんねらーが、指定日に吉野家新宿靖国通り店に押し寄せ、「大盛りネギだくギョク」を注文するというもの。後者は提唱者がマトリックスの主人公ネオと同じ格好をして渋谷の交差点から公衆電話まで指定時間に駆け抜け、その際、参加したい人間はスーツ姿のエージェントになって提唱者を捕まえる」というもの。どちらもその瞬間、見知らぬ匿名の人間が一定の空間(吉野家新宿靖国通り店、渋谷交差点)に現れてパフォーマンスをするというもの。することはそれだけである。

しかしながら、これが異様な風景であることはフラッシュ・モブを見た人間誰もが感じるだろう。言い換えれば、フラッシュモブは、この第三者の感じ取る異様さを楽しんでしまっているのだ。ただし、それを実行しているものは全員見知らぬ匿名である。

ここでフラッシュ・モブとなる連中が求めていることは、この異様な騒ぎに周りがざわめくこと。しかも、自分の素性はわからない(吉野家ならこれやっている隣の席の人間を知らないし、ましていわんやマトリックスモブなら全員サングラスだから顔すらわからない)。つまり、このバカげた遊びによって世間を騒がし、しかもその騒がしたことの当事者でありながら、責任を持たないで住む。つまり、やった本人たちは思わずニンマリし、自分が社会を、ちょっぴりだが動かしたという自己陶酔に浸ることが出来るのだ。

フラッシュモブのホンネは「社会に認められたい」

フラッシュモブはなぜこんなバカらしい行為をしでかすのだろう。その理由は、おそらく自らが情報化社会の一ビットでしかないことを無意識のうちに自覚しているところにある。彼らはメディアが錯綜、消費で消費物が氾濫する中で快適に暮らしているが、その反面、自らの存在根拠はそこにはない。つまり他と交換可能な一ビットな存在でしかない。もちろん一ビットであることは、匿名な存在でもあり、表面的には何者にも行動、思想を規制されない自由な存在だ。いわば「しがらみ」はない。しかしながら、情報化、そして消費社会は、知らない内に、一定の行動パターンを人々に強いるようになる。それは命令形ではなく、知らないうちに、規律訓練的に従わされるものだ。自販機へのコインの投入、ID、パスワードの入力、そしてメディアの流す情報に無抵抗に従う日々。それは自由のようでいて、実に不自由。第一、自分たちはまるで計量的に扱われているだけで、実質的には存在がなきに等しい。そして、そのことを彼らはそこはかとなく実感しているのだ。

そこで、いたずらをしてやろうというわけだ。つまり、システムを少し脅かしてみる。ただし、それによって責任が降りかかり、自らの自由が拘束されてしまっては困る。だからあくまで匿名の内にこれを行動する方法を考えると、その結果がフラッシュモブ的ないたずらとなる。

では、フラッシュモブ的行動に加担することの御利益は何か?それは、そうやって世間に一泡吹かせることで、社会をちょいと動かして見せましたという悦楽に浸ること。自分の、ただし匿名の力をそこに感じることだ。そうすることで、自分の力が社会に影響を与えたことになるわけで、それは結局、自分が社会に認められたこと、言い換えれば、その瞬間だけ社会の一ビットを脱したことになる。しかも匿名ゆえ、この行為に問題があったとしても責任を問われることもない。そしてこれに満足すれば、彼らはまた情報化消費化にあふれたシステム社会の羊=情報化の家畜に戻っていくというわけだ。いうならば、これは情報社会システムの中でのストレス発散方法なのだ。

こういったフラッシュモブ的な現象はいろいろな規模がある。小さいものはブログ炎上、つまり特定のブログを誹謗中傷で潰してしまうという行為がこれに当たるだろう。そして、その大規模なものが「お祭り党」による、各種の、下手すると社会を揺るがしかねない「祭り」なのだ。(後編へ続く)

※関連ブログ フラッシュモブを取り込んだ小泉劇場
2005/10/16
http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/14158165.html?p=1&pm=c&t=2
2005/10/24
http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/14896946.html?p=1&pm=c&t=2

?H3>マヌケだった「ワールドカップ決勝トーナメントニッポン進出決定!」祭り 昨年のワールドカップ、われわれはまたも熱狂した。開幕前は、日本が決勝進出することは当然のような風潮が流れていた。メディアも大衆も、みんな踊っていたのだ。祭りだワッショイ、祭りだワッショイといった具合に。しかし、ご存じの通り、結果は見るも無惨な惨敗だった。どうして、こんなことになったのか、多くの日本人はアタマをかしげた。

しかしである。海外のメディアは日本が決勝トーナメント進出など無理なことをちゃんと予想していた。思いこんでいたのは日本のメディアと日本人だけだったのだ。僕は、これを「ワールドカップ決勝トーナメンニッポン進出決定祭り」と呼びたい。ようするに盛り上がりたかっただけなのだ。

ただし、他の祭りに比べると、この祭りは間が抜けている。小泉郵政民営化祭り、新庄日ハム日本一祭り、そのまんま東宮崎県知事当選祭りは結果が伴っていた。しかし、こちらはそうではなかったからだ。だから脱力感もスゴかった。(ジーコは早々に日本から消えた。アイツはいったい、なんなんだったんだ?)
今回は「祭り特集」第二弾として、ワールドカップ時の熱狂を取り上げたい。

インスタント愛国心

ワールドカップ、ドイツのスタジアムにも日本サポーターの声援は確実に響き渡っていた。日本人の結集を感じさせるこの熱狂。どう理解したらよいのだろう。

 人間はコミュニケーション動物である。常に何らかの形で他者と関わろうとする。そのためにはコミュニケーションを取り持つための共有する何かが必要である。だが、現代は価値観の多様化した社会。情報を共有することは限りなく困難な時代である。

 そんなときスポーツ・イベントは格好のコミュニケーション・メディアとなる。同じ日本というチームを応援し、一丸となることで盛り上がる。 その際、発生しているのは情報の共有ではなく感情の一致である。これは人と人のつながりが得られなくなった情報化時代には、連帯を感じられる格好の、そしてひょっとしたら唯一の手段なのかもしれない。

 この熱狂と連帯は瞬発的であり大きなエネルギーが生じるが、構造性がないゆえ持続しない。ということは、イベントが終われば人々は日常生活に戻っていく。残るのはカタルシスだけという、ある意味で思想統制的な陰謀をたくらんでいる輩には構造化を図ることの難しい「健全な」愛国心である。だから、ワールドカップのスタジアムでニッポンを連呼することは、かつての国家主義的な構造に結びつくことはない。

インスタント愛国心は利用したもん勝ち

 ならば、この「健全な」愛国心、手放しで賞賛できるものなのか。そんなことはない。これはこれで十分にアブナイものでもある。

 問題はその瞬発性にある。構造性が無く無邪気に盛り上がるのだから、そして尾を引かないのだから洗脳の道具として利用するのは確かに難しい。だが、とりあえず盛り上がっている最中は大衆を騙し続けることが可能なのだ。その間、人々は深く考えることもなく瞬発的に本気になるからだ。ということは、熱狂を作り出し、このエネルギーを引き寄せさえすれば利用できることになる。ことが政治であれスポーツであれ、そのメッセージ性ではなく感情に訴えかけ、熱狂させさえすれば、仕掛けた側は、その間、火事場泥棒的に自らの欲望=策略を実現してしまうことが可能なのである。

 この詐術に最も長けていたのが小泉純一郎だった。昨年の衆院選。わけのわからぬうちに大衆が小泉祭りに踊らされ、自民党に票を入れてしまったのは、ほかならぬこの熱狂のなせる業だった。それだけではない。嫌中ナショナリズム(これもまたサッカー試合が引き金だったが)の盛り上がりや、ミサイル発射を受けての反北朝鮮感情を利用した、どさくさ紛れのミサイル発射基地攻撃正当化も同様だ。小泉は国民のヒステリックな感情を煽り、政治的ねらいを実現しようとしたのだ。

 その結果、軍備の拡大、福祉的締め付け0Kというお墨付きを詐術的に奪取されてしまった。あの時、われわれは気づかないうちにすっかりだまされ、ボールをあちらに手渡していたのだ。

「祭り」に対して冷静さを持つことの必要性

 われわれはこの熱狂をわがものとしなければならない。そのためには熱狂しつつ醒めてもいるようなスタンス、いいかえれば熱狂を飼い慣らす必要がある。
 ところがどうだろう、あのワールドカップへの空騒ぎ。三連勝、勝ち点9で予選突破などと、ありえないことを熱狂の中で日本人の多くが本気で夢想してしまった。しかも本来、こういった幻想を打ち消す役割を担うマスメディア自身までもがこの熱狂に酔い、国民全体がコントロールを失った。これではダメだ。

 今回は政治がらみでないゆえ大した害はないものの、われわれはまたもや熱狂自体に踊らされてしまったことはかわらない。無邪気な熱狂は無邪気なだけに世間知らずの「おぼっちゃま」な愛国心でもあるのだ。

 熱狂の瞬発力をわれわれの連帯のために利用し、上からの押しつけではなく、下から積み上げとして大衆の側からの愛国心を形成すること、そしてし続けること。それこそが「正当」な愛国心の正体ではなかろうか。

だが、そのために、われわれが必要とされること。それは「祭りリテラシー」だ。つまり、「祭り」は楽しいので踊りたい。これはわかる。ただし、これが利用されているのではないかと懸念し、場合によっては甘い誘いに乗らないといった態度が形成されること。これが形成されるためにやるべきことは「情報リテラシー教育」ということになる。現状では、われわれは、あまりにこういったメディアの扇動にウブなのだから……

 今回のワールドカップ空騒ぎ。われわれ、そしてメディアに残された課題は大きい。

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