勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2005年11月

アメリカは太って歩けなくなるほど自由な国だ


アメリカ・フロリダ・ディズニーワールドに行ったときのこと。いちばん気になったもの、それは「デブ」である。でぶ、デブ、でぶ、デブ、でぶっ!いたるところにデブがいる。しかもこのデブり方がハンパでない。男も女も、「う~ん、これは100キロはカタいな」と思わせるほどの巨漢。アメリカの経済力は世界一、でも健康に生きられる年齢は70才で世界ランキング第十位。まあ、やたらとデカいホットドッグにこれまたデカいコーラで流し込んでたら、こうなるのもあたりまえだわな。

たとえばハンバーガーセット。並のハンバーガーの大きさがビッグマック大。これにその倍くらいの量、つまり皿てんこ盛りのフライドポテトかキャロットスティックという生ニンジンがつく(おいおい、ウサギじゃねーんだぜっつーの!)。これを並を注文しても500ccはあろうかというコーラで流し込むのだ(Lなら1リッターだよーん)。カロリーは、まあざっと1800といったところ。こいつらいったいどういう胃袋してんだよ!

太って歩けなくなったヤツが優遇される、オマヌケでステキなアメリカ民主主義

で、このデブがやっぱ困りもんでもある。あまりの重さに膝を痛めてまともに歩けなくなるのだが、それでも自由の国アメリカではWDWに行く権利は、十分に保障されなければならない。しかもこれがなぜか特別待遇。WDWのアトラクションにはかならず身障者用のスペースが確保されている。しかもかぶり付きでショーが見られる最高の場所。これを彼らは待つことすらなく利用することが可能なのだ。

ちょいと、これは考えもんじゃないでしょか?アメリカさんよ!一般の体の不自由な人なら十分、こちらは理解できます。でも自己管理もできず勝手にデブって歩けなくなったあげく、最高のシートを確保することができるなんて、どー考えても理解の域を超えています。でも、こんなデブがつぶれそうな車椅子に乗っているシーンがWDWでは30秒に一回は見ることができるのだ。

でも、先頃アメリカでは肥満者の団体が映画館の肘掛けを廃止しろと訴えて(太りすぎてイスに座れないのだ)、これが通過したそうな。アメリカは太って歩けなくなっても勝手気まま、わがままが通るほど自由な国ということなのか?

稚拙きわまりない学会発表

10月22日。日本社会学会大会に出席した。そのおりのこと。

午後のテーマ部会。参加したのは情報・コミュニケーションという部会。六名が発表したのだが、その報告のあまりのひどさに、はっきり言って開いた口がふさがらなかった。バカヤロー、責任者出てこい!の感覚である。
内容が稚拙であるなら、それでもまだいい。問題なのは、内容についてのツッコミ以前の問題なのだ。つまり発表者としてのレベルに達していない、プレゼンのことを知らない全くの素人が発表している、としか思えないことが問題なのだ。

その稚拙きわまりないところを、具体的に示そう。

ひとつはことばの定義。学会で発表する際、というか科学というものを前提に何かの議論を行おうとするのなら、まずやるべきことは定義の明確化だ。M.ウェーバー的に言えば価値自由ってやつだ。つまりそのことばの運用法に妥当性があるかどうかはともかくとして、とにかくある用語を使うことを決めたならば、それに対する意味を一義的に確定しておき、それ以外での意味では使わない。ソシュール的に言えばシニフィアンとシニフィエの間のコードを一義的に決定しておくことだ。
ところが発表者の連中はこれが全く守られていない。情報やコミュニケーション理論で用いられる最も基礎的な用語の「メディア」「データベース」「ヴァーチャルリアリティ」「アーカイブズ」と言ったことばまでもが、何ら定義されることなく、本人のムードに基づいて、またそのときの状況に合わせて意味を変えながら用いられている。これを科学的手続き原則とする学会発表の場でやることは、致命的。

もう一つは先行研究が全く踏まえられていないと言うこと。最初の登壇者はマスメディアということばを、これまでの研究者の運用法を吟味することなく、乱暴に、あるいは日常的な意味合いで使用していた。こういった、長年にわたる研究蓄積のある分野の用語を用いる場合、先行研究を踏まえていなければ、その評価は全くゼロである。これまた科学とは言い難い。

学会発表とは、先行の研究を踏まえつつ、それらを批判的に検討しながら、新たな知見や研究結果を提示するもの。思いつきの印象風景、自閉的な発想を展開しても何ら反響を生むことはないのは、いうまでもあるまい。

責任者出てこい!……大学院教育の問題

これら発表者はいずれも大学院生。その大学も関東R大、K大、W大、そして関西のR大と、私学としては「名門」の研究機関に属する院生たちだ。それがなんでこんな学部生レベルの初歩的なルールすら守ることができないのか。それどころか、「私はUNIXオタクです」とスライドで紹介するものまで現れる始末。バカだから?そうかもしれない。だがそれ以前にもっと重大な問題がある。

要するに大学院の指導教官、専門的に言えばマル合の教員が、この連中の面倒をほとんど見ることがなく野放したからこうなったのだ。あっちこっちで大学院が新設されているが、こんな連中、つまり研究者としては何の役にも立ちそうもないゴミにを量産するようなことになったら、社会悪である。また、こんなことを続けていては発表している院生たちの将来も暗い、というか、フリーターやニートを単に生産することになりかねない。研究者はある意味で教育者でもなければならない、というのが日本の大学(一部除く)。ちょいと先生方、仕事していないんじゃありませんか。

もう少しツッコミを入れると、「研究熱心な教員は教育はやらない」、「教育熱心な教員は研究をやらない」などというのも結構ウソ。優秀な研究者は得てして優秀な教育者でもある。たとえば上野千鶴子などは教え子の書いている論文にバッチリ目を通し、ボロクソに言いながら教育し、いっぽうで研究にも旺盛に取り組んでいる。また、社会科学であるならば、自分のやった論文がある程度社会性があったり、読みやすい文章であったりする必要があるのだが、こういったことの技術は、実は教える中で培われるものでもあるのだ。

これ以上、発表のゴミ、人間のゴミが出てこないことを祈るばかりだ。それから社会学は教育方法(とくにフィールドワークの教育方法)についての研究をもっとやるべきだろう。そうしないと社会学の将来も危ない。

オマケ……プレゼンテーションツールの功罪?

今回、発表でもう一つ気づいたことがあった。それはプレゼンテーションツールの、意外だがあたりまえの機能の発見だ。すべての発表がパワーポイント(以下、パワポ)を使っておこなわれていた。で、パワポを使ってプレゼンする場合、プロジェクターで大きく表示するために文字数を少なくしなければならない。いいかえれば、それは必然的に要点を押さえていなければならないということになる。だから、それぞれの発表の趣旨が容易に理解できる。これまでは長々と書きつづったレジュメを読み続けたり、延々と訳のわからないレクチャーを続けたりするお陰で、よくわからない、というか煙に巻かれる発表が多く、結局趣旨すらわからなくて価値があるのかゴミなのかすらもわからないという発表が多かったのだが、パワポはこういった「学会におけるオーディエンス側の受難」を未然に防いでくれているのだ。

いやー、ホントにすばらしい。だからこそ、今回、自分の出席した部会の発表がすべてゴミであったことがすぐにわかったのである。プレゼンテーションツールはゴミと宝を峻別する格好のツールだと実感した次第。

そして報道ステーションの開始

2004年、古館は久米宏の「ニュースステーション」の後釜番組、「報道ステーション」のキャスターに抜擢される。スタッフも古館プロジェクトのメンバーだ。伝えられるところによると、この企画を取り付けたとき、古館は「天下を取った」と叫んだとか。これが本当だとしたら、権威主義者=古館のホンネだったことになるだろう。彼にとってニュースショーはフロンティア。一介の局アナからプロレス中継、F1中継とステップアップし、ついに報道というメディアの本丸へ、しかも報道の歴史を変えたといわれる、あのニュースステーションの、そして久米宏の後任である。うれしくないはずはない。まさに「我が世の春」を迎えつつあったのである。

しかし、しかしである。開始された番組は低空飛行で始まってしまう。なにかと久米と比較され、そしてすべてが低い評価。「あんなもん、やるんじゃなかった」と当初は思っていたかも知れない。だが、次第に視聴率は上がりはじめる。ただし、久米宏の時のような革新性を周囲から評価されることはない。裏番組NHKの「ニュース10」もそれなりの視聴率を維持。現在、報道ステーションは、低空飛行でこそ無いが、いわば「中空飛行」(こんなことばはないけれど)で番組を推移させている。

たしかに、報道ステーションの古館には魅力が感じられない。つまりスポーツ中継で見せた迫力もおしゃれ関係で見せた怪しげな仕切もない。しかしなぜ、そうなんだろう。古館論を締めるあたって、最後にこれを考えてみたい。で、最初に結論。報道ステーションの古館が魅力がないのは、やはり彼が「権威主義」であるからだ。

言うまでもないが、もともと古館の個性はアナウンスするコンテンツではなくパフォーマンスにある。つまりこうだ。古館の解説は、どんなときでもその情報量が少ない。つまり情報を頭にバンバン詰め込んで、データベースのように語るというタイプではなく、むしろ少ない情報を仰々しい定型化されたパターンで演出することで情報それ自体を単純化し、視聴者に「古館節」として聞かせるところが魅力なのだ。ということは、同じ相手に、同じパターンを何度も繰り返すことで、古館のパフォーマンスは威力を発揮する。そして久米も情報を単純化することにはきわめて長けていた。

ただし、古館と久米のパフォーマンスは一点で決定的に異なっている。それは安っぽい表現をすれば「感性」の有無にある。久米は情報を単純化した後、あくまで素人、つまり政治のことは詳しくないというスタンスを取りながらも、結局、情報に対してツッコミを入れている。しかもたった一言だけ。時には批判し、時にはちゃかし、時にはごまかし……これがエスプリの効いた表現で、しかもその都度ポイントを抑えていた。

ところが古館の場合、単なる定型句が展開されるだけだ。しかもきわめて凡庸というか、月並みな表現が。「こーいうことって、本当にありうるんでしょうか」みたいな、全く持って意味のないシメしかできていない。久米のような機転の効いたコメントができないのだ。言い換えれば久米は瞬間的なアドリブ、古館は定型パターンを状況を鑑みながらタイミングを計って、これぞというときにまってましたとばかり決めぜりふを言う。繰り返すが、このような芸風は当然、ひとつのキャラクターに何度も繰り返されることによって認知される。だから猪木でありセナであったわけだ。

コイズミは古館にとって格好の材料のはずなのだが……

さて、小泉純一郎である。「フラッシュモブを取り込んだ小泉劇場」ですでに述べておいたが、小泉はもっぱらパフォーマンスとイメージ勝負している。しかも毎日のようにテレビに登場する。これは古館にとって最も得意とする素材のはずだ。アントニオ猪木、アイルトンセナはともにナルシスティックで滅茶苦茶パフォーマンスがうまく、しかもほぼ毎週、同じ時間にテレビに登場していた。これが古館の「過激なセンチメンタリズム」とか「背で風切るセナ」という定型句でさらにボルテージアップされていたからだ。小泉こそ古館にとっては格好の素材のはずなのだが、にもかかわらず、小泉を形容すべきことばは、古館の口からは未だにでてこない。

この理由は、ひとつは「小泉をアイデンティファイすべき対象としてはいけない」というテレビ朝日的スタンスにある。つまり朝日新聞=権威主義的エセ左翼がコントロールしている放送局なので、与党よりの発言はダメ。一方、古館といえば、主役に絶対的に加担し、アイデンティファイし、勝手にロマンを語ってしまうというパターンで初めて本領を発揮する。だから小泉パフォーマンスを自らのパフォーマンスで脚色することが、制度的にできない。

もう一つは、政治があまりに情報量が多いと分野であるためだ。それゆえ、古館がこの情報量を処理できない、しかもメディア報道の最高峰、だから古館節を炸裂することは恐れ多くてできない。つまり、古館のゴーマンと卑屈の二元論図式の内、もっぱら卑屈が稼働、古館節は後退しざるを得ないのである。
だから、結局、凡庸な、しかも日和見大衆的なまとめ方しかできず、知識が乏しいところは隣の解説者に丸投げというパターンに終始するのだ。

報道に古館節を

だか、しかし。ここは、古館に頑張ってほしいと思う。テレ朝でやっているのだから小泉をほめることはできない。しかしおまえには悪役を徹底的に悪く罵倒する、もうひとつのパターンもあるだろう。小泉自民党のパフォーマンスのエゲつなさを「おーっと!今度は○○攻めだ。また姑息なやりかたをしようとするのか、これこそがコイズミの戦略なのか~?」とやっちまえばいいのだから。だいいち、政治なんて高尚なものでも何でもなく、形而下パフォーマンスが跋扈する世界なのだから、古館のバトル解説こそ、本来ならばピッタリくるはずなのだ。そしてそのパフォーマンスは結果として、政治の相対化、コイズミ劇場の虚構暴露につながるはずなのだから。つまり、古館はその古館節を政治=報道分野に持ち込んだとき、新しいニュースショーのニュースキャスターとして久米を超える存在になることができる。それは小泉のパフォーマンスの化けの皮をはがし、政治やメディアに関する相対化を視聴者に促す強力な逸材となるだろう。

政治という権威にひれ伏す必要などはない、また報道という権威にもひれ伏すことはない。一度、このパターン、つまり古館のいつものパターンでエラそうに、ゴーマンに報道ステーションでしゃべりまくるところを、是非見てみたいと思うのは自分だけだろうか?

「古館伊知郎、このままでいいのか?ただのボンクラ、ひょっとこ腰抜けアナウンサーをつづけていいのか?さ~あ、どうすればいいんだ、古館伊知郎。このまま手をこまねいていては未来はないぞ!古館!」

古館伊知郎。フルタチ節を、やっていなければ、ただの小市民!

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