ディズニーランドパレードに涙した
1983年以降、日本各地にテーマパークが建設された。ところが、そのほとんどが失敗。現状では元祖の東京ディズニーランドが一人勝ち状態だ。2001年、大阪活性化の期待を担ってオープンしたユニバーサルスタジオジャパンも、ここに来て勢いが急減速している。若者たちよれば、ディズニーの他のテーマパークにはない魅力は、なんといっても「リピーターになる」、つまり何度も行きたくなるところにあるという。そこで、ここではその理由を象徴するエピソードをとりあげ、仏社会学者ロジェ・カイヨワの「遊び」論を参考にしながらこれを分析することで、情報化社会で身体=カタログ的思考を身につけた人間の行動原理を示してみたい。
それは「ディズニーランドではパレードを見ていると、わけもなく涙が出てきてとまらくなる」というものだ。
それは「ディズニーランドではパレードを見ていると、わけもなく涙が出てきてとまらくなる」というものだ。
めまいの快適性
カイヨワは遊びの要素を四つ指摘しているが、そのひとつに「めまい」がある。ジェットコースター、クルマを疾走させるなど、スピードに関わる遊びから得られる爽快感がこれに該当する。めまいのメカニズムを、情報、そして自我のと関わりで考えれば次のようになろう。先ず大量の情報が目の前に提示される。そのあまりの膨大さに処理不可能な状態となった個人は、情報の海の中に身を投げ、自我の情報への融解、あるいは没入という事態を発生させる。それが「めまい」である。
さて、ディズニーランドのパレードでの涙だが、これこそが「めまい」に他ならない。
パレードにはおびただしい数のフロートが繰り出す。そして、すべてのキャラクターが楽しそうにこちらにほほえみかけてくる。これをディズニーキャラクターをあしらった衣類やグッズを身につけた大勢の観客が取り囲むことで、ムードをいっそうもりあげる。
さらに、これだけにとどまらない。というのも、パレードを鑑賞する観客たちの中には、ディズニー世界に関する多くの情報があらかじめインプットされているからだ。
おそらく、彼らは赤ん坊の頃、ベビーミッキーがついた産着やほ乳瓶などのグッズで無意識のうちにディズニー世界に触れ、子供時代にはビデオ、映画で様々なディズニー作品を鑑賞し、また何度もディズニーランドに繰り出し、現在では家のあちこちにディズニーグッズがあふれている、といった具合にインフラストラクチャーを構築してきているはずだ。つまり、知らないうちに頭の中はディズニー情報でいっぱいなのである。
パレードにはおびただしい数のフロートが繰り出す。そして、すべてのキャラクターが楽しそうにこちらにほほえみかけてくる。これをディズニーキャラクターをあしらった衣類やグッズを身につけた大勢の観客が取り囲むことで、ムードをいっそうもりあげる。
さらに、これだけにとどまらない。というのも、パレードを鑑賞する観客たちの中には、ディズニー世界に関する多くの情報があらかじめインプットされているからだ。
おそらく、彼らは赤ん坊の頃、ベビーミッキーがついた産着やほ乳瓶などのグッズで無意識のうちにディズニー世界に触れ、子供時代にはビデオ、映画で様々なディズニー作品を鑑賞し、また何度もディズニーランドに繰り出し、現在では家のあちこちにディズニーグッズがあふれている、といった具合にインフラストラクチャーを構築してきているはずだ。つまり、知らないうちに頭の中はディズニー情報でいっぱいなのである。
そして、パークのディズニーテーマで充満した環境の中、パレードが始まると、これら情報が一挙に提示される。パーク空間の膨大な情報と、記憶の中に埋め込まれた膨大の情報が、スパークするのである。
観客はその情報を一つ一つ読みとろうとはしない。情報量は解読する能力をとっくに超えている。だから彼らはそれら情報を丸ごと浴びる、あるいはその情報の中に身を投げるのだ。
観客はその情報を一つ一つ読みとろうとはしない。情報量は解読する能力をとっくに超えている。だから彼らはそれら情報を丸ごと浴びる、あるいはその情報の中に身を投げるのだ。
情報を丸ごと浴びてしまうことの現代性
その際、現象するのは自我の忘却と環境への身体の融合だ。そう、きわめて快適な「めまい」の発生である。送り手、受け手双方によって構築された情報環境の中で、彼/彼女はエクスタシーを感じるのだ。それは、ホーリスティック(=全体感に包まれる)、癒しの感覚である。そしてそれが涙というかたちを結実する。この時、強いアイデンティティが感じられることは、いうまでもあるまい。ディズニー世界というバーチャルな「社会」と一体化した身体が、そこにはあるからである。これら情報は膨大さゆえに解読不可能。だから何度でもめまいを経験することができる。そう、これこそがディズニーランドが癖になり、リピーター化する仕掛けなのである。残念ながらUSJや他のテーマパークには、こういった重層的メカニズムによる情報の横溢はない。
だが、このような情報環境は、モダン時代の古い論理的思考形態に固執する人間や、ディズニーランドのインフラがない人間にとっては、逆に恐怖の異様なめまいに転じるだろう。膨大な情報の中で自我を喪失すること、それは恐怖に他ならないからだ。だからこういった人たちはディズニー経験を薄気味悪い、不気味なものとして否定的に語らざるを得ない。
パレードに涙する、というエピソードは今日の若者を語る上で実に示唆的だ。これこそが、論理的思考を退け、情報化社会のカタログ=身体的思考を身につけた人間特有の反応だからだ。ディズニーランドでの涙、それは情報を丸ごと受け取り、これを身体的に反応する新しい時代の思考・行動スタイルの必然的結果なのである。
パレードに涙する、というエピソードは今日の若者を語る上で実に示唆的だ。これこそが、論理的思考を退け、情報化社会のカタログ=身体的思考を身につけた人間特有の反応だからだ。ディズニーランドでの涙、それは情報を丸ごと受け取り、これを身体的に反応する新しい時代の思考・行動スタイルの必然的結果なのである。