物議を醸す白鵬のパフォーマンス

大相撲名古屋場所、全勝同士の白鵬と照ノ富士の優勝決定戦は白鵬が制したが、この取り組みが物議を醸している。問題は、もっぱら白鵬にある。


ポイントは


・時間いっぱいになったにもかかわらず、なかなか蹲踞の姿勢をとらなかった。

・両者なかなか手をつかず、最終的に照ノ富士が両手をつき、その後、白鵬が右手をつき、さらに左手でチョンと手をつくことで取り組みが開始された。

・立ち会い直後、白鵬は目くらませ的に左手を照ノ富士の顔の前に出し、次いで右腕で豪快にかち上げを行った。

・勝負の後、ガッツポーズを見せた。


伝統か?ルールか?

これら白鵬の一連のパフォーマンスについての批判は、専ら「横綱としての品位に欠ける」という点に集中している。最高位としての横綱の伝統的なあるべきかたちは、こうしたスタンドプレーはやらず、むしろ「受けて立つ」という姿勢にある。それこそが相撲という文化であり、横綱の役目であり、美学である。とりわけ、カチ上げについては「あれじゃプロレス、エルボーだ」と非難された(取り組み中継の中で花田虎上(元若乃花)は「いただけない」と批判している)。つまり白鵬のパフォーマンスは伝統に反している。まあ、こんなところだろう。


一方、白鵬を擁護する立場もある。「そもそもカチ上げは違反ではない。だから、どこがいけない?本人は膝を庇いながら死に物狂いで頑張っているだけだ」というわけだ。脳科学者の茂木健一郎は白鵬を擁護し、そのパフォーマンスを「バリエーションの問題にすぎない」と一蹴した。茂木は、これも相撲というジャンルの多様性の一つであり、それゆえ伝統に対立するものではないと、主張する。要するに茂木は、こうしたバリエーションが伝統を継続させていく、言い換えれば新しい伝統を作っていくと言いたいのだろう。


「伝統かルールか?」、この辺に対立の焦点が当てられているというのが実際のところだろう(ただし、茂木の議論は、これに「文化=伝統とは何か」についての言及が加えられている)。


横綱はカチ上げをしてはいけない?

この対立図式、僕にとってはあまり興味深いものではない。「伝統か?ルールか?」という対立では視点がほとんどかみ合っていないからだ。そこで、もう一つ別の視点から(言い換えれば、二つを接合する視点から)白鵬のパフォーマンスについて考察してみたい。誤解を避けるために議論のポイントを一つに絞る。それは「横綱(この場合、白鵬)がカチ上げをする」ことの是非である。


僕の結論は「現状では横綱がカチ上げをやるべきではない」これである(ただし条件付でOK。理由は後述)。では、なぜ?それは白鵬が「横綱はカチ上げしてはいけない」とみなしている文化と同じ土俵を利用して、これを行っているからだ。そして、これは結果として取り組み自体をフェアなものではなくしている。つまり「暗黙のルール」に違反している。もっと言うと、このパフォーマンスは自己欺瞞・自己矛盾とすら言える。


誰が白鵬にカチ上げをした?

違反=自己欺瞞のメカニズムはシンプルだ。ポイントはたったひとつ「白鵬にカチ上げをやった力士がいない」点だ。相撲という伝統=文化では、前述したように「横綱は横綱らしくしなければならない」という黙契=暗黙のルールが存在する。それを守ることで伝統が維持されるとみなされている。ところが白鵬は「ルール違反でない」という別の論理でこの伝統を破っている(ご存じのように、カチ上げはもはや白鵬にとっては“得意技”のレベルにある)。その一方、対戦相手が白鵬にカチ上げをやるというシーンは、僕の記憶するところではお目にかかったことはない(あったとしても白鵬の方が圧倒的に数が多いので、気がつかないだけなのかもしれないが)。


白鵬のカチ上げは相撲の伝統=文化を利用することで成立している

なぜ、他の力士は白鵬にカチ上げをしないのだろう?それは白鵬が格上、しかも最高位の横綱であるからだ。つまり格下力士は「横綱に対してカチ上げをするべきではない」という認識を暗黙裡に前提している。そして、この認識は相撲という文化=伝統に基づいいる。


となると、次の図式が成り立つ。白鵬のカチ上げは「下位の者は横綱に対してカチ上げをやるべきでない」という伝統=文化を利用しつつ、白鵬自身は「横綱はカチ上げをやらない」という伝統=文化を破ることで成立している。こうなると、必然的にアドバンテージは白鵬に与えられる。対戦相手が伝統=文化に基づいてカチ上げをしてこないので、結果として白鵬がやりたい放題という「ハンデ戦」になってしまうからだ。こうした制度的側面を踏まえれば、白鵬のカチ上げがフェアではないことがわかる(社会学では、このような行為を「抜け駆け的逸脱」と呼ぶ。つまり”理屈には叶っているが、道理には叶っていない”)。それゆえ、多くの人々が不快を覚えるというわけだ。自らには明示化されたルール(「カチ上げは反則ではない」)を支持して暗黙のルール(「横綱はカチ上げをするような品位のないパフォーマンスをしてはいけない)を否定し、その一方で相手には暗黙のルール(「横綱にカチ上げをしてはいけない」)を適用させる。結果として白鵬は相撲の文化=伝統を利用することでカチ上げという有利な技を手中に収めているのだ。


白鵬のカチ上げを正当化するためには

では、白鵬のカチ上げを正当化するためにはどうすべきなのか。それは対戦相手が上下関係にかかわらずフェアな状態を創り出すこと、つまり「カチ上げ」という技による白鵬のアドバンテージをなくすことだ。やり方は二つある。


一つは「カチ上げのルール違反化」、つまり禁じ手にすること。これは極めて保守的なやり方ともいえる。


もう一つは、その反対で「カチ上げの全面解禁化」だ。つまり、地位の上下にかかわらずカチ上げをやってもいいと明言してしまうこと(暗黙のルールを否定してしまうこと)。これができれば白鵬にカチ上げで挑む下位力士も登場することができる。これは要するに茂木の主張するバリエーションの問題として片付けることができる。つまり、力士全員が手軽にカチ上げするということで相撲のスタイルが変容していく、それが新しい文化=伝統を作り上げていく。「やられたらやり返す、しかも倍返しだ!」的なバトルが繰り広げられることになるわけで、面白いかもしれない。照ノ富士も来場所、白鵬にカチ上げをやってみてはいかがだろうか?


さあ、みんなで白鵬にカチ上げしよう!って、収拾がつかなくなるかも?(笑)なんのことはない、これは相撲のプロレス化ということになるんだろう。まあ、それも新しい文化ということになるのだろうが。もっとも相撲はプロレスと違ってガチンコなので、ケガ人が絶えないという結果を生むことも容易に予想は可能だが……


というわけで、白鵬のカチ上げ、現状ではアウトなのだ!