勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

報道ステーション、一年経過しても古館は相変わらずダメ

相変わらず古館はイケていない。報道ステーションでの彼の態度は、なんか、こう腰が引けているという感じで、これまでの迫力がない。例の古館節もまったくやらないし(ウリはこれのはずなのだが?)。なんで古館は番組に馴染んでいないんだろう?

結論から言おう。「古館は『権威主義者』=強いものにはすり寄り、弱いものを侮蔑・切り捨てることによって、自らの権威をグレードアップさせていこうとする志向の持ち主=ゴーマンと卑屈の二元論者、だからだ。だから報道ステーションではビクビクしている」のだ。という前提で、古館のパフォーマンスと、この権威主義について考えてみた。古館はどうやって現在の階梯に上り詰め、そして今、止まっているのか?


プロレス実況中継でフルタチ節は完成

古館がブレイクしたきっかけはテレ朝アナウンサー時代、新日本プロレスの実況を担当したことにはじまる。ここで大げさな実況をすることで、彼のスタイルは世に知れ渡る。だが古館実況のもっとも特徴的な点は、一般に評価されるこの「大げささ」ではなく、むしろキャラクター設定のわかりやすさにあるといえるだろう。つまり、識別のつきにくいレスラーにすべてワンフレーズで修飾語句を与え、その文脈でレスラーのキャラクターを組み立てるというやり方だ。アントニオ猪木ならご存知「燃える闘魂」、アンドレア・ザ・ジャイアントなら「人間山脈」といった具合。番組の冒頭には、実況されている会場のある都市の特徴を、ほとんどの場合、戦国武将の物語で紹介。さながら街全体が「戦いのワンダーランド」(これも古館が好んで使っていたセリフ)と化しているかのような演出をおこなっていた。これに、例の「おーっと!」という「大げさ実況」が加わる。技の解説についても同様で、ほんとともウソともつかないエピソードを付け加えていた。半面、技術的な内容の詳細については一切語らなかった。だからプロレス素人のオーディエンスには、きわめてわかりやすい解説と映ったのである。

こうしたやり方が、全体としてきわめて単純化したドラマを組み立てることに成功する。ドラマにたとえれば、一般のドラマではなく大映テレビ室の制作する「赤いシリーズ」(山口百恵が主演していたもの)「スチュワーデス物語」などのデフォルメを全面に展開するやり方、要するに単純化・定型化したキャラクターが、ありえない仰々しい設定の下に、ありえない仰々しい演技をする手法をプロレスに持ち込むことで、プロレスの複雑性を極端に単純化し、実際のプロレス以上に「プロレス的」に演出することに成功したのである。それはプロレス上につくられた、もう一つのフルタチ・プロレス・ワールドに他ならなかった。

古館がプロレス実況をはじめた当初、プロレスファンは彼の実況には批判的だった。「ゆっくり試合を見せろ」「フルタチはうるさすぎる」「技術をあんまり知らないので、同じことをやたらと連呼している」などなど。しかしながら、古館は経験を積むにつれて知識も増やし、さらにはこういったファンを納得させるレベルにまで技術を向上させていく。


プロレスに飽きた古館

彼はその勢いに乗じてテレ朝を退社、古館プロジェクトを立ち上げ、フリーのアナウンサーとしてスタートを切る。だが、この時点でひとつの逆転が起こる。その逆転とはプロレスと古館の関係だ。プロレスは猪木の全盛期、厳密には新日本プロレスの全盛期が過ぎ視聴率が低下。テレビ朝日金曜午後八時台というゴールデンタイムでの実況中継権も失い、またプロレス自体も他団体が乱立。地盤沈下を起こしていった。一方、古館のほうといえば、例のフルタチ節はすっかり世間に定着。他のアナウンサーまでがこのやり方をまねるようになるというほどカリスマと化していた。

すると、それまで猪木を尊敬しプロレスを絶賛していた古館は、次第にプロレス自体を見下すようになる。試合はメインイベントの中継のみしかやらなくなり、実況の回数それ自体が減っていく。(変わってプロレスの実況をはじめたのはテレ朝アナウンサー辻義就だった。辻は一生懸命フルタチ節をパクっていた。だが、彼にはフルタチ的なおどろおどろしさが無く、節回しの切れがなかった。また、ワンフレーズによるキャラクター設定もへたくそ、一方、情報量はフルタチより多かったために、辻の実況は、ストーリー性に乏しく、ともすればわざとらしさを助長することとなる)こうなると古館自体もすっかりやる気をなくし、プロレスについての積極的な情報収集などは全くやらなくなる。実況は既存の古い情報だけで展開されリアリティを失っていった。その杜撰さは回をおすごとに増していき、プロレスファンでなくとも「ああ、こいつ、手をぬいているな」ということがはっきりわかるほど稚拙なものへと転じていったのだ。そして、古館は猪木の退場を理由に、プロレス界から足を洗っていく。

プロレス実況を降りて数年後。古館は「猪木との約束」というタテマエで、久々にプロレスの中継を行った。ただし猪木のタイトルマッチだけ。この試合の実況は、ただただ、傲慢、猪木までもを見下した「エライ古館様が、プロレスなどという二流で下卑た、スポーツともエンターテインメントともつかないものの実況をしてやっている」という態度に溢れていた。「ああ、この人は強い人には卑屈に、弱い人にはゴーマンに対応するのだなあ」。

つまり、フルタチ・システム=古館の権威の階梯上昇パターンは、こうだ!

あるジャンルの実況をはじめる→人気を博す→自らがビッグになる→担当するジャンルが下火になる→見下す→勉強しなくなる→適当にいいわけをして、その世界から離れる(あるいはそのジャンルを捨てる)という「フルタチ」パターンはこの時期に形成されたのだった。(続く)

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コイズミの戦略~ワンフレーズポリティックスのすごさ
コイズミの戦略のうまさは政治のアジェンダ(議題)それ自体をそらしてしまうことにある。そのやりかたは「二択方式」にある。つまり○か×かに議題を限定させてしまい、その中身を議論させないというやりかただ。

今回の場合は郵政民営化反対ですか?賛成ですかという、ご存知のもの。これで二つの論点がボケてくる。ひとつは郵政民営化以外の改革がボケる。つまり郵政民営化に焦点が当てられ、他の議題への目線が失われる。もうひとつは郵政民営化それ自体の内容=論点がボケる。「民営化賛成?反対?」という選択肢だけがクローズアップされ、民営化の中身の議論への焦点がはずれるのだ。

次いで、この演出を徹底化するために、一般にわかりやすいフレイム=物語を設定する。これまたご存知、自民非公認、さらには刺客の送り込みだ。これで選挙は一挙にドラマ・水戸黄門化する。ご老公(コイズミ)、助さん格さん(武部等の閣僚)、お銀(小池百合子、片山さつき等)、越後屋・悪代官(反対票を投じた亀井静香などの元自民党員、野田聖子などはさしずめワルの女)。ようするに、やたらとわかりやすい、おなじみの図式にはめることで、選挙ドラマを明瞭化してしまう。

しかも、コイズミ劇場のすごいのは視聴者参加方式というか、テレビゲーム的なところだ。つまり、投票という行動に加わることで、あなたの選択が実際に実現しますよと感じさせている。投票に行く人間はこの「力の現ナマ」に魅力を感じるような仕組みになっているのだ。だって、参加すれば自分の力を行使し、社会で自分が影響力を持っていることを感じることができるんだから。

こうなると、おもしろいので「投票にいってやろう」ということになる。だから投票率は10ポイント近く上昇した。僕はスタバにいたとき、政治のことなんかこれっぽっちも関心のない若者が「おい、ところで投票、何時頃いこうか」と相談しているところを目撃した。そんなの今まで見たことなかったから、チョーびっくりものだった。

コイズミ劇場はマトリックス祭りと同じメカニズム
そう、これは「吉野屋祭り」「マトリックス祭り」と全く同じ図式。ちなみに同じ図式はたとえばワールドカップで日の丸の旗を振り、大声で君が代を歌うサポーターたちの心性にもあてはまる。あれは右傾化でも何でもなく、この力の感覚だ。さらに同じ図式が最近起きた。2ちゃんねる上で発生した「のまネコ」問題が、それ。あれも、よってたかってエイベックスをたたきまくり、マスメディアの関心を惹起し、大騒ぎさせた挙げ句、エイベックスは陳謝し、かつ「のまネコ」の登録商標を取り下げた。騒いだ連中は自分の力の強さを発揮できたのだから大満足だっただろう(もっとも、まだまだバッシングは続いているのだが。ここまでくると、さすがにサディステックな感じがしないでもないが)

要するに、コイズミはフラッシュモブを全国的規模で作り上げる技術を持っていた、たぐいまれなる「政治的手腕」(政治の内実でなく、政治戦略の点での)を備えた「名宰相」ということになる。国民、とりわけヒマな若者をフラッシュモブ化することで「郵政民営化祭り」を開催し、膨大な数の無党派層の取り込みに成功したのだ。「無党派層は宝の山だ」とかコイズミはいっていたが、まさに彼は宝の山を掘り当ててしまった。しかもこれまでの政治キャンペーンとは全く違うやり方で。いやー、ホントにコイズミって人間はクリエーターだよね。

で、マヌケなのは民主党だ。もっぱら政治の中身で勝負しようとしたからだ。しかも政見放送もお粗末きわまりないものだった。岡田克也と蓮紡が対談式ですすめるその政見放送は、いきなり岡田のファミリーの話からはじめ、しかも、その話を、話しかける蓮紡でなくテレビに向かって岡田がしゃべるという、ウソっぽさきわまりないもの。テレビリテラシー的に見ても、こんなのはマヌケ以外の何物でもない。そんなものにフラッシュモブ化する大衆は全く興味など示すわけはないのだ。

一方、コイズミはカメラを真正面に睨みつけ、いっさい原稿に目をやることなく「郵政民営化は改革の本丸」とだけいい、それ以外の政治の項目は一切触れることはなかった。フラシュモブが「萌える」には十分の説得力の名演技。たいしたもんだ。脱帽!

そして選挙は案の定、自民党の大勝ということに。コイズミの支持率は上がり、郵政民営化法案は可決された。この驚異的な大勝利に、今度はマスコミがこれを懸念する報道を流す。ファシズム化するのではないか?国民は愚民だ、一党独裁、コイズミヒトラーは好き勝手なことをやるのではないか…………。ご心配なく、これはフラッシュモブのいたずらなのだから。選挙の後、しばらくして政党支持率が調査された。すると、すべての党の支持率が下がっていた。え、じゃ、どこの支持率が上がったの?いうまでもなく、それは「支持政党なし」、そう無党派層である。しかも10ポイント近くも。

この10ポイント分?フラッシュモブの投票分じゃないの?そう、「郵政民営化」祭りが終わったのでフラッシュモブは解散(解体、消滅?)したのだ。だから、彼らは祭りを楽しんだのであって、自民党を支持したのでも政治を真剣に考えたのでもなんでもない。日の丸に涙し、君が代を大声で歌うサッカーの日本サポーターが右傾化することなどないように、この10ポイント分の投票者もまた政治的に右傾化することもない。祭りは終わったのだから。

結局、政治と関係のないところで票を集める方法をコイズミは考案したということになる。そんでもって、コイズミはマスメディアも民主党も、ついでに自民党までもみんな利用してしまったというわけだ。

テレビ・リテラシーを高めよう。でも結局、投票率は下がるのだが……
先日、某地方新聞社の報道が僕のところへやってきて、今回の衆院選でのメディア、とくに新聞の問題点について指摘してくれといってきた。その新聞記者が自戒を込めていうことには「マスメディアはコイズミに見事、してやられてしまった。これじゃあいかん。不偏不党・客観報道を旨としながらも、こういった政治以外のパフォーマンスみたいなことで選挙が左右されることがないように、新聞は啓蒙する必要がある。でどうすればいいんでしょ」ということだった。

僕は「コイズミが場外乱闘をやっているのだから、新聞が読者に教えるのは試合のルールではなくて、場外乱闘のルール」と応えておいた。つまりコイズミ劇場が伝えるストーリーに焦点を当てるようなこれまでの政治報道ではなく(もちろんこれも必要だが)、ストーリーの構成、演出のパターンを解説する。言い換えると演出=楽屋の作業を解説すること。コイズミ劇場を相対化し、慣れさせてしまえば、フラッシュモブ化は防げるというのが、僕の主張だ。これは要するに政治キャンペーンについてのメディアリテラシーを高めるということ。はやくコイズミのやり方に飽きさせることなのだ。

そうすれば結果として本来の政治課題であるその内容、つまりストーリーが政治議論のあるべき物として残る。ただし、それは無党派層が全く関心のないコンテンツののだけれど……結局、政治離れ、そして投票率の長期低落傾向は終わらない?

「吉野家祭り」と「マトリックス祭り」

ハワード・ラインゴールドはフラッシュ・モブという概念を提出している。ネットを通した情報に基づいてイベントを起こす群衆を指す言葉だ。たとえばわが国で起きたフラッシュモブによる一連の事件には「吉野屋祭り」や「マトリックス祭り」がある。前者はネットの掲示板で匿名の投稿者が場所と日付・時間を指定し、その時刻に指定された吉野家に大挙して訪れ牛丼を注文するというもの。後者も同様に指定された時刻に指定された地下鉄の車両にマトリックスの格好をして乗り込むというものだ。ともに瞬間的に集まって、瞬間的に解散する。特徴的なのは、その際にこの「オフ」に参加した者の間でまったく交流がないことである。

ただこれだけの行動にすぎないのだが、これがおもしろい、というか当人たちには大きな快感となる。理由は、こういったばかげた行動が集団性故にきわめて目立つ、それによって擬似的な連帯感を得られるからだ。それだけではないメディア上で取り上げられるということもある。つまり、みんなでバカなことをやり、それに参加することで一体感を得られると同時に自らが瞬間的に有名人になる、そしてマス・メディアが取り上げることによって、自分の行った行動に力があることを感じられるのだ。しかも有名人になったということを自覚するのは自分だけ、いいかえれば、相互の交流がないため、個々の匿名性は確保されるのである。


源流は伊集院光のシミュレーション・ごっこ

ちなみに、こういったメディアを用いたバカ騒ぎはこれが初めてというわけではない。すでに15年以上も前、当時ラジオのパーソナリティであった伊集院光はニッポン放送の番組の中で、これと同じようなことをやっている。「伊集院光の大予言」というコーナーで、伊集院は次々と予言をし、それを的中させるというのがこのコーナーの趣旨。たとえば「○月×日、JR水道橋駅東口改札左の自販機のドリンクがすべて売り切れている」と予言すると、これが100%の確率で的中するのだ。なんのことはない、予言を聞いていたリスナーが、その時間までに販売機のすべてのドリンクを買い切ってしまっているだけなのだが……。当時、これは「シミュレーションごっこ」と呼ばれ、そこからヴァーチャル・アイドル芳賀ゆい、荒川ロック・ブラザースなどが誕生したりもした。詳細は省略するが(詳しく知りたければ西垣通『デジタル・ナルシス』(岩波書店)を参照のこと)、この時はまだ、匿名性が完全に確保されていたわけではなかった。なんとなれば伊集院という「有名」な存在があって、リスナーの匿名性が確保されていたのであるし、またラジオ番組を媒介として間接的なコミュニケーションは継続的に行われたのだから。これは中野収に言わせれば「円盤に乗ったコミューン」(『カプセル人間の時代』中野収、時事通信社)に他ならなかった。

自民党大勝はフラッシュ・モブのせい?

一方、フラッシュ・モブにはこういった関係性は存在しない、いやむしろこういった関係性を積極的に回避し、反面で集団の一体感だけを確保するというかたちで行動は発生している。そのためにはラジオなどという責任性が派生するかもしれないメディアよりも、無責任性を徹底可能なBBSが有効であることは言うまでもあるまい。

さて、ここから考察したいのが、今回の自民党大勝についてだ。小泉自民党は無党派層を大量に取り込んで、見事に圧倒的な勝利を獲得したのはご存じの通りだが、この無党派層こそラインゴールドの言うフラッシュ・モブではないかと思うのだ。言い換えれば吉野や祭り、マトリックス祭りの延長上に今回の衆院選がある。このことを考えてみたいと思う。(続く)

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