勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

あまりに酷いチキン・リトル

ディズニーアニメ「チキン・リトル」を、ディズニーのお膝元、浦安舞浜・イクスピアリのシネコンで観た。成城石井にワインを買いに行ったおり、たまたまここで3Dをやっているというのでフラっと入ってしまったのだが……ウーム、観てはいけないモノを見てしまったというのが正直偽らざる感想だ。

かなり、酷い作品と断言してもいいかもしれない。まずスクリプトがダメ。父親とチキンリトルのコミュニケーションの描かれ方が一本調子。で、話の落とし方はハッピーエンドであることは別に良いのだが、展開が相当くだらない。正直な話、途中で眠くなってしまった。Yahooの映画評で、「子ども向け」との指摘が連発されていたが、まさにその通り。大人が見るモノではない。子どもがいなければ決してみることはなかった「お子ちゃま」向けの安っぽいストーリーだった。少しはアイロニーを入れるとか、ストーリー展開に緩急をつけるとか、少々難しい心理描写をするとかやってくれないと困るよねえ。

次にキャラクターが、ダメ。チキンリトルはキャラクターが乏しいにもかかわらず、あわただしいので、単にうるさいだけ。おかげで吹き替えのTARAKOの声も慌てているちびまるこちゃんが延々続く感じで、耳にキンキンと響く。また、彼女役になるアヒルのキャラクターが、マジで醜い。これだけ醜いキャラクターにしているのだから、逆に内面がうまく描けていて、映画の最後には魅力的なキャラクターに見えるように作られているんだろうなあと期待していたのだが、そんな作りはいっさいなく、おかげで彼女がチキン・リトルにキスするシーンはグロテスクなものでしかなかった。

さらに絵もダメ。これまでディズニーブランドで配給してきたピクサー作品の数々を見慣れた側からすると、技術がダメと言うだけでなく、絵のデザインや設定、トリックも全然ダメ。とにかく、ダメ、ダメ、ダメなのだ。それでもお客は入っていた。勝手に推測するが、その理由はお客がこれをピクサー作品と勘違いしたためじゃないのか?

ディズニーアニメは、この十年間没落し続けている

ディズニーはこの十年間、ロクなアニメを作ってきていないことは、ディズニーにちょっと詳しければ誰もが知っていることだ。ディズニーアニメの凋落は95年、ディズニーの社長、フランク・ウエルズがヘリコプター事故で死亡。その後任をアニメーション部門の統括者ジェフリー・カッツェンバーグが要求し、これをCEOのマイケル・アイズナーが拒絶したことから始まる。怒ったカッツェンバーグばディズニーを辞めてしまう。これが大問題だったのだ。なぜなら、彼は80年代末のリトル・マーメイドから始まるディズニーアニメの第二の隆盛の立て役者、つまり美女と野獣、アラジン、そして未曾有の成功を遂げたライオン・キング(ただし手塚治虫『ジャングル大帝』のパクリ)の生みの親だったからだ。

辞めただけならまだいい。残念ながらそれだけでは住まないのがこの業界のおもしろいところ。カッツェンバーグば辞めたその足でS.スピルバーグ、D.ゲフィン(J.レノンのアルバム・ダブルファンダジーなどを擁するゲフィン・レコードのオーナー)とSKG、つまりドリームワークスを設立する。その後このチームがアンツを始まりにシュレック、シャークテール、マダガスカルといったヒットアニメをとばしていく。

一方、カッツェンバーグが抜けた後のディズニーアニメは悲惨を極めていく。ポカホンタスまでは、まだ惰性で好成績を挙げていたが、その後ノートルダムの鐘、ヘラクレスと失敗。ムーランも鳴かず飛ばず。ターザン、リロ・アンド・スティッチでしのいだものの、この後のトレジャー・プラネット、ブラザー・ベアともなると、一般には作品名すらも覚えられていないほどの不発となる。おや?トイ・ストーリー1・2、バグズライフ、モンスターズ・インク、ファインディング・ニモ、ミスター・インクレディブルといったコンピュータ・アニメの傑作群があるじゃないの?と言いたくもなるかも知れないが、これはピクサーの作品であって、ディズニーは配給しているだけだ。で、チキン・リトルである。ディズニー・アニメは完全にクリエイティビティを失っている。

そして、今やピクサーはディズニーに変わる、アニメーションの帝王に君臨した。そのことをよく認識しているピクサーのCEO、スティーブ・ジョブズは、ここ数年ディズニーに対して、配給条件の変更を何度となく突きつけてきた。たとえばキャラクター・グッズにピクサーのロゴを入れさせるとか、興行収入の分け前率を増やせだとか。また、ディズニーの方もピクサーアニメの主任であり監督やプロデューサーを勤めているジョン・ラセターを引き抜こうと画策したりする。(詳細はジョブズの非公認人物伝『iCON』に詳しい)当然、こんなことが繰り返されアイズナーがジョブズと激突。次作「CARS」を最後にピクサーとディズニーの契約はうち切られた。

ピュアな、そして自らをメディア化したメディア研究者

僕は、こういった中野さんのスタンスが好きだ。彼は実に高潔な人だったのではなかろうか。いや、自分が知っている限り、そう言う人物以外の何物でもなかったように思う。中野さんはメディア論自体を純粋に自らのフィールドとして取り組んだ。そして、自らの表現方法としていちばんやりやすい方法を選んだ。それが前回、書いたようなやり方だったのだろう。だから、世間、というか社会学系の権威からは一目置かれるが「煙たい存在」として扱われることになったのではなかろうか。ただし、そういうスタイルを採り、ある意味「在野」に居続けたからこそ、自由な思索、執筆活動も可能だったわけなんだろうけど。

こう考えると、中野さんは、彼が評価していたマクルーハンにちょっと似ていないこともない。マクルーハンは60年代のアメリカの(彼自身はカナダ人だが)アカデミズムにおけるスーパースターだったが、その文体、表現方法、いいっぱなしで説明しない(「私は説明しない、探査するのだ」とかの怪しい発言(マクルーハン的にいえば「クール」な発言)を繰り返していた)、文章構造が滅茶苦茶(『グーテンベルクの銀河系』を見よ)だったため、これが70年代には否定的に評価され「ペテン師」呼ばわりされた挙げ句、落ちた存在のまま70年代の最後の日にこの世から去った。中野さんも、一般的なスタイルをとらずに表現活動をしたこと、しかもいいっぱなしだったことなどから、やっぱり共通点がある。ただし、彼はマクルーハンほどにはパフォーマンスに長けた人間ではなかったけれど。

理論の体系化を試みた晩年


中野さんは晩年、自らの理論の体系化に乗り出している。その端緒は『若者文化人類学』(東京書籍、91)あたりだろう。そして、本格的に取りかかったのが『メディア人間』(東京書籍、97)だった。実際、彼自身、本書の中でメディア社会論の教科書=体系立てたものであることを謳っていた。前者がそれまでの考察のダイジェスト版であり若者をベースに綴ったものであったのに対し、後者は中野版・メディア論を前面に出したものだった。ここでは、彼の「汎メディア論」的立場、彼のことばをそのまま引用すれば「モノみなメディア」という立場に立った、きわめて包括的な立場からのメディア論が展開されている。人間はメディアを介してしか対象を把握できない。つまり、すべてをヴァーチャルなものとして捉えている。だから人間は本質的に「メディア人間」でしかありえないというわけだ。

W.リップマンにも通じる、こういった疑似環境論は、既存のバーチャルリアリティ論、もっと俗的にいえば「現実VSヴァーチャル」二元論、たとえばテレビゲームばっかりやいっているから現実と仮想の区別が付かなくなってしまい、その結果、少年の凶悪犯罪が増加している、などというウルトラ・マヌケな議論や、コミュニケーションにおける関係の希薄化論(ケータイなどのメディアを使い続けると人間本来のコミュニケーションが結べなくなり人間関係が薄っぺらになる)という「オオカミがやってくるぞ」式の安っぽい「メディア警鐘論」を簡単に吹き飛ばすだけのパワーと説得力を持っていた。中野式メディア一元論は、徹底した価値観相対化を促す、実に洗練された、そして先を見通した魅力的な理論だったのだ。

ただし、である。やはりこの『メディア人間』も、殴り書きっぽいところがある。論旨はしばしば飛ぶし、繰り返しも多い。断線まである。読者が補って読む、言い換えれば彼が構想していたメディア論の断片を、こちら側で再構成してやる必要があるものでもあった。

私事になるが、僕は彼がこの本を書く前年、二年間ほど共同研究で中野さんとお付き合いさせていただいたことがあった。研究の最中は、議論はネタ切れすることも一切無く延々続き、実にクリエイティブでスリリングなものだったが、そこで彼が展開していたアイデアが本書には満載されている。だから、僕とこの研究に加わったごく数人のスタッフは、彼がこの本で伝えようととしたことが痛いほどよくわかる。逆い言えば、この本のなかで取り散らかったかたちでバラまかれた考察を集めて、補って内容を理解できる数少ない人間の一人であると思っている。それだけに、この、いつも通りの書きっぷりが残念に思えてならない。そして、確信を持って言うが、『メディア人間』は彼の理論をスシ詰めにした傑作であり、予言(預言?)の書でもある。

メディアの預言者、中野収は復活する?

マクルーハンは、没後の80年代以降、コンピュータを軸とした情報化社会が進展する中で再評価がなされた。彼の言った「ウソ話」が、ウソでもなんでもなく、80年代以降に起こることをことをことごとく言い当てていたことが判明したからだ。そしてたとえばメディア論という学問領域もアカデミズムのひとつとして認知されることになった。彼がそれまで否定されていたのは、マクルーハンの「銀河系」、つまり彼の理論構造がわらりづらく、当時の常識では一般的には理解できなかったから。それが80年代なって、やっと彼に時代が追いついたというわけだ。

中野さんもそんな研究者なのかもしれない。これだけいろんなことをとっちらかして向こうの世界へ逝ってしまった。でも、彼の思索過程の痕跡は「活字」で残されている。だから、中野収の理論がいずれ研究者によって整理され、さらに時代が追いつけば、中野収はマクルーハン同様、復活することも十分にありうるのではないだろうか。そんな時が来ることを、僕は期待したい。もし、そうはならず、相変わらず社会学・メディア論という世界が政治や権力の道具になっていたら……それは、おそらく、社会学というリアルな学問が訓古学に転じているときでは無かろうか。

合掌

メディア論研究で知られる法政大学名誉教授、中野収さんが亡くなった。享年72歳。大学を定年退官後、まだ二年の早さだった。今回は中野さんの業績と社会的な位置づけについて考えてみたい。

社会学ではタブーな存在だった?

不思議なメディア論研究者だった、といったら故人に失礼だろうか。少なくとも我が国のメディア論者たちからすれば「触れてはいるけど、触れてはいけない」ような位置づけにあった人のように僕には思えてならない。ここではその理由を二つあげたい。

ひとつは、彼の学問的なスタンスによる。
非常に才気活発な人で、その論述は常に先端であるどころか、あたかもマクルーハンのごとく20年先、30年先を見据えたものばかりだった。たとえば70年代初頭に展開した「カプセル人間論」。わがまま勝手にしていたい。ならば他者とのコミュニケーションを切断して、メディアとだけ関わり合えばよい。でも、それでは寂しい。そこで、他人と一緒にいるときでもメディアを挟むことで、わがまま勝手と寂しさ回避を両立する。こういった「孤立と連帯のバランス人間」を、中野さんは、すでに60年代後半、団塊の世代たちの喫茶店の利用方法から見抜いていた。当時の若者がグループで喫茶店にやってきても、それぞれ雑誌やマンガ、新聞などを手に取り、同じテーブルを囲んでも、それぞれがそれぞれのメディアに目を向けていて、コミュニケーションをとらない。ただし、ときどきそのメディア越しに会話をするというスタイルを採っていたというのだ。それは、それ以前の喫茶店の若者たちの風景、つまり若者たちが互いが議論を戦わせる姿とは正反対のイメージに他ならなかった。そして、こういったカプセル人間が社会的性格、つまり若者を含めた日本人の基本的性格になったのが80年代、さらにそれが極まったのがケータイやカラオケが普及している現代であることはいうまでもない。ケータイが身体の一部と化している若者はカプセル人間以外の何物でもないからだ。また、東浩紀が指摘するようなデータベース消費についても、すでに86年にその記述があるなど、とにかく最先端で駆け抜けた感がある。(『現代史の中の若者』岩波書店)

ただし、これがなかなか人口に膾炙しなかった、というか社会学の領域では取り上げられなかったというのも事実。その理由のひとつは、彼の文体が論文調ではなくエッセイ調であったこと。まさに「つれづれなるがままに書く」というスタイルで、繰り返しが多かったり、話の脈絡が飛ぶこともしばしばだった。だから、彼の考えている体系というのが、ちょっとわかりにくかったことも確かだ。しかも先行文献の引用をほとんどせず、また引用注を付けるということもほとんど無かった。(こういった引用スタイルは権威主義で嫌だったのだろうか?)さらに学会誌よりも一般誌や単行本のかたちをとって発表したものがほとんどであったことも、その原因であったろう。それ故、中野さんの考察は、無視されるか、説法の鋭さとオリジナリティの高さゆえ、エッセンスだけを抜き取られるかたちでうまい具合にパクられた。

もう一つは学会で政治的な動きを見せなかったこと。たとえば東京大学から大学院を経て社会情報学研究所(かつてなら新聞額研究所)経由で教員になるような研究者は、その環境の中でコネクションを構築すると同時に、日本社会学会、日本マスコミュニケーション学会などの運営活動の中に繰り入れられ、社会学のマスコミ・メディア研究の主要なメンバーとして、この領域を牛耳るというようなパターンをとる。逆にいえば、このようなルートを通らずに研究者になることはきわめて困難であると同時に、なったとして学会のメインストリームからは遠い存在となる。言い換えれば、自由な学問であるはずの社会学、メディア研究にあっても会社や官僚のようなヒエラルキーは厳として存在する。その最たる者が現在、メディア研究でメインストリームとなっているカルチュラル・スタディーズを牽引する吉見俊哉であることは、こちらの業界ではほぼ「常識」だ。(こういった「権威の階梯を暴き解体するカルスタ」の担い手が、我が国では権威の担い手になるところが、まあ、おもしろいのだが)

中野さんもまた東大経由で法政大学の教員となったのだが、なぜか彼はこういった権威の階梯には目を向けることなく、もっぱら当時(60年代)では萌芽的で泡沫的でしかなかったメディア研究に精を出す。ということは、ここでほとんどメインストリームを外れてしまったのだ。ただ、その才気ゆえ、発表するものは一般的には評価され、またメインストリームの社会学者たちにも読まれ(ただし、さっきも書いたように彼らは引用は滅多にしないで剽窃した)、それゆえスタンド・アローンな地位を築くことになった。とりわけ80年代半ばから90年代半ばにかけては単行本のかたちで数々の文献を出版している。また、80年代にはメディアにも登場し、ワイドショーのコメンテーター(フジの「おはようナイスデイ」など)と出演することもあった。まあ、まとめてしまえば、自分を売るのがうまくない人だったということになるだろうか。だから、最終的には「エライ人」になることはなかった。(つづく)

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