勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

就活ルール廃止が学生を混乱に陥らせる

2021年からこれまで経団連が設定していた就活ルールが廃止される。いわゆる紳士協定が完全撤廃されることよって、現大学二年生はいつでも内定を取ることが可能な状況が発生するのだ。言い換えれば完全なる自由競争。だが、僕はこの廃止を非常に危惧している。就活と学業の関係がゴチャゴチャになるからだ。学生たちは年がら年中就活に関わらなければならず、学業どころではなくなる。事実、現在の大学4年生の状況が典型で、4年生のゼミナールが成立しなかったり、授業にまともに出席できないという事態が発生しているのだ(中には、就活の欠席を欠席とカウントしないという「配慮」(蛮行?)を行う教員もいるらしい。いいのか?そんなことして?)。

廃止積極的肯定論におけるエリート主義

このルール廃止を積極的に肯定する立場がある。「就活」と「学業」の二項対立は間違い。二つは相互補完的な関係にある。つまり就活をうまくこなすことの出来れば学生は学業もうまくこなせる、その反対も同じ。つまり、これらは互いにスキルを補い合っているのだと指摘する。そして、そうした補完関係をより促進するために早いうちからインターンに取り組むのがよい。実際、早々にインターンを開始した学生は社会と大学の関係をよく踏まえ、双方に好結果を生み出しているという。

残念ながらこうした指摘は理想論かつ極めて偏ったものでしかない。また論拠も曖昧だ。早々から就活やインターンをはじめるのは活動力が旺盛な学生たちだ。つまり「就活をうまくこなすから学業もうまくいく」「学業をうまくこなすから就活もうまくこなす」「インターンを積極的にこなすから学業や就活もうまくこなす」というのは、いずれも相関するが因果関係的には無根拠なのだ。むしろ、この関係を説明するの最も妥当な回答は「もともとこうしたスキルを備える学生が学業、インターン、就活いずれもうまくこなすしているだけ」となるはずだろう。つまり根元のスキルは同じ。小学校で成績のよい児童は概ね全ての科目においてよい成績をあげることができるが、これは点を取るスキルがはじめにあったから、全ての科目で優秀になるのと同じメカニズムに基づくと考えるとわかりやすい。

学生は今も昔も就職には受動的な存在

大多数の学生は残念ながらそのようにはなっていない。大学三年次ともなると、彼らは就活にソワソワし始める。これは大学の就職支援部が学生の尻を叩きはじめるからだ。セミナーが始まり、リクルート会社への登録が3年生全員を集めて行われ、そしてリクナビやマイナビがさらにこの尻叩きに拍車を駆ける。その結果、なんだかわからなくても就活はしなければいけないという強迫観念に自動的に駆られてしまうことになる。

こうした大多数の学生は就職戦線において自らを柔軟にコントロールすることが出来ない「活動力がさほど旺盛でない就職弱者」の若者だ。で、これら学生に対して就職ルールが廃止されたらどうなるかは火を見るよりも明らかだろう。大学入学早々、就活のために大混乱に陥るという事態が発生する可能性も考えられる。

インターンの早期開始でスキルを磨くことは一見現実的のように思える。だが、現状ではインターン制度は未発達。全員がインターンを受けられるのは限られた学生で、しかも企業によってはたった1日だけのインターンといった帳尻だけを合わせているものも多い(僕は学生たちに「1日だけのインターンなんてほとんど意味ない。利用されているだけ。本当のインターンは中長期にわたるもの」と教えている。ちなみに僕もインターン推奨者の一人ではある)。そして、これら有益なインターンを獲得する学生は当然、就職強者、つまりはじめからスキルを備えた若者たちなのだ。

学生のスキルアップをさせようとしないリクルート産業

ただし、もし仮にインターン制度が充実し、多くの学生がこれに参加できるようになったとしても、実は大きな問題が立ちはだかっている。企業と学生の間を取り持つリクルート産業の存在があるからだ。これら企業は、当然のことながらこのインターンにも介入してくるだろう。そして、現在と同様、システムの中で大多数の学生を「管理」(「就職脅迫」と言い換えてもよいかも知れない)し始めるだろう。その結果、インターン制度は骨抜きにされ、学生は大学在学中は右往左往させられることになる。事実、大多数の学生は現在リクルート産業に「おんぶに抱っこ」の状態なのだから、結局、これまで同様、あるいはこれまで以上に没主体的、かつ受動的にリクルート産業にコントロールされることになる。しかも四年間も。インターンによる自律性や社会性と確立というのは、こうしたリクルート産業という存在がある状況では、効果が薄いと判断せざるを得ない。ちなみに、これはいまどきの学生に主体性が足りないと言っているわけではない。この年代の若者はまだ未成熟であるから、むしろこうなるほうがあたりまえ。今も昔も大学生はそんなもんなのだ。

就活もネオリベラリズムの時代が到来する

ただし、これは一部の活動的な就職強者の学生にとっては福音だ。大学就職支援部やリクルート産業を縦横無尽に駆使することがえきる能力を備えていれば、これら学生にとっては「鬼に金棒」、やりたい放題となる。
しかしながら、こうした学生はマイノリティだ。そして偏差値が低くなればなるほどこの割合は減っていく(もちろん上位偏差値校であっても、やはりこの手の学生はマイノリティなのだが)。そして、やはりリクルート産業の管理下に置かれることになる。これでは主体性の形成もままならない。
結果として、こうした状況は、いわば「就職ディバイド」を生むことになる。言い換えれば就活のネオリベラリズム化。マタイ効果によって、富めるものはより富み、貧しい者はより貧しくなる。そして、大学生の過半数が後者に属することになる。

法政大教授の田中研之輔氏はこの解決策として「ターム&プール」を提唱している。これは春休みと夏休みにインターンも含めた就職活動を集中させ、それ以外は学業に集中する。要するに二つを平行させつつも分離させる、しかも双方を関連させるというアイデアだ。ただし、氏はリクルート産業が介在することによる「就活のシステム的管理」について考慮していない(企業の力を舐めてはいけない)。また、大学は「知的怠惰」という重要な機能を担っている。ギャップイヤーなどはその典型で、これももう一つのインターンシップではあるが、これらについてもアイデアからは除外されている。

さしあたっての処方箋はルールの厳密化だ!

現状では、就職に関してはある程度のルールを採用すること、残念ながらこれがいちばん無難な方策ではなかろうか。極端なことを言えば就活ルール、すなわち就活解禁日を企業に厳守させて、違反した企業に採用禁止といったペナリティを科すのが対蹠法的に見て、現状では最もシンプルで現実的と僕は考える。

ただし、これはあくまで対蹠法であり、根本的な解決策とは当然言えない。その一方で大学生と企業のマッチングに関するシステムを企業ーリクルート産業―学生を真剣に考える必要があることもまた確かだろう。企業のリクルートはイイカゲン、リクルート産業もイイカゲン、そして学生もイイカゲンという現状では学生の質は低下するばかりなのだから。こうしたインフラを整備した時、田中氏の提案するようなプランが初めて現実性を帯びてくるはずだ。

異論を唱えられ始めたピエール瀧報道

ピエール瀧のコカイン使用による逮捕については、その報道のあり方に異論を唱えるという、ちょっと変わった状況が生まれている。これは好ましい事態,だ。

瀧が逮捕されたとしても、瀧が出演していた過去の番組の放送中止や瀧が所属する電気グルーヴCDの出荷や音楽配信の停止はやり過ぎではないのか?薬物は病気なのであって、これは罰するというより治療という文脈で捉えるのが妥当であり、犯罪者としてつるし上げにするのはいかがなものか?有名人の薬物に関する報道は、むしろこうした薬物に苦しんでいる人々を奈落の底に突き落とす行為ではないのか?(「薬物報道」は、麻薬に冒された人間がさらに手を染める引き金になるという)。視聴率稼ぎのためにパパラッチもどきの報道を行っているメディアは、いわゆるイジメの構造と同じではないのか?などなど。

こうした指摘は、ある意味的を射ているといえるだろう。とりわけ違法薬物使用者に対するメディアの対応には酷いものがあると言わざるを得ない。だが、今回の問題、実はもっと根が深い構造的な問題ではないか。つまり、これは「ネット依存症によるメディアの堕落」なのだ。

メディアによるネット依存の構造

近年、メディアが報道する「お手軽な手口」はだいたいこんな感じになる。
インターネット上で何か話題が起きている。とりわけ有名人が炎上する。しかしインターネット上で炎上が起きているうちはまだいい。「炎上」だから、いずれ炎は燃え尽きる。いわば「家が一軒燃える程度」で。ところが、これをメディアが視聴率、購買率稼ぎのために取り上げた瞬間、「一軒家程度の火事」は「大火事」へと転じてしまう。一般に言われるメディアは、正しくはマスメディア。マス=巨大なオーディエンスを相手にしているので、結果としてはネット上のバイラルどころの話ではないくらい全国規模で拡散してしまうのだ。

ところが、こうした大炎上は必ずしも民意を反映したものではない。慶応大学の教員である田中辰雄と山口真一は『ネット炎上の研究』(勁草書房)の中で、攻撃的な書き込みをする炎上参加者はネットユーザー全体の0.5%に過ぎないことを統計的な視点から明らかにしている。だから鵜呑みにするのは厳禁なのだ。

ただし、こうした炎上ネタは興味本位、出歯亀的視点からは極めてキャッチーだ。つまりメディアとしては容易に数字を取ることが可能と考える。そこで、きちんと現状を精査することもなくこれらを取り上げ、それが結果として大炎上に繋がってしまうのだ。その際、よりキャッチーなネタが好まれるわけで、それは有名人のネタということになる(例えば、これを書いている僕が麻薬所持で逮捕されようが、メディアは見向きもしないか、せいぜいものすごい小さい記事で掲載する程度だろう)。

で、ピエール瀧は好感度も高く、今最も旬な芸能人。ところがコカインで逮捕。この落差は大きい、そしてキャッチーだ。当然、お手軽に数字を稼げる。となると麻薬に関するクリーシェ=常套パターンを引っ張り出して袋だたきにする。注射器、白い粉、街頭インタビューでの「信じられない」「がっかりしました」「裏切られた」的なコメント。こうやって一儲けのネタ出来上がりというわけだ。これは、いうまでもなくフェイクニュースの類いとなる。正確には事実を適当に組み合わせ、クリーシェに沿って内容を盛って大騒ぎにしてしまうという手順が「事実を事実でないものとしてでっち上げる」ことになるのだ。

マスメディアは信用を失い、飽きられはじめた

だが、今回、当のインターネット上から多数の異論が提出されるに至った。なんとピエール瀧に対する同情論とか、前述したような薬物中毒患者の扱いに関する報道のあり方への疑問、メディアに対する種々の批判等が投げかけられるようになったのだ。

これは、メディアがそろそろ、こうしたネット依存状況を真剣に捉えなければいけないことを突きつけられる時期がやってきたと理解してもよいのではないか。実際、メディアへの信頼はどんどん失われている。80年代、文系の大学生たちが憧れたのはメディアだった。しかし現在、メディアへの関心を強く持っている学生はかつてほど多くはない。こうしたパパラッチ的なやり方に、ちょっとウンザリしているみたいなのだ。強気を助け、弱気を挫く。都合の悪いものには直ぐに蓋をする(今回のピエール瀧の件はその典型。瀧の利益に関するものを全てカットしてしまうのは自己保身以外の何物でもないだろう)。そして、こうしたメディア嫌悪の認識、徐々に高まってきているように僕には思える。

メディア=マスメディアは、そろそろこうしたネット依存をやめるべきだろう。いや、ネット情報を取り上げること自体は問題ない。ただし、その際には厳密に裏を取るという作業をするべきだ。そして、自分たちにとって都合のよい情報だけでなく、都合の悪い情報も受け入れるだけの度量を備えるべきだ。いいかえれば、メディアはインターネット情報に対してナイーブすぎる。ネットへのメディアリテラシーをもっと高めなければならない。

だが、悲しいことに、こうした「メディア、酷いんじゃね?」的なネット上の議論をメディアは取り上げようとはしない。ピエール瀧がコカイン依存症であるように、メディアは「インターネット依存症」だからだ。だから、無意識のうちにこれら情報をスキップしてしまっている。「人を騙すには、先ず味方から」という諺があるが、現在のメディアは「人を騙すには、先ず自分から」という状態なのだ(おそらくこの文章もメディアは完全に無視するはずだ。可哀想な話だが)。つまり、完全に中毒=依存症。

メディアも依存症治療のための専門家が必要?

もし、メディアがこうした活動を続ければ、その信頼はますます失墜するだろう。だが依存症患者ゆえ、自らでは治療不可能。それゆえ失地回復、すなわち数字を稼ぐために、ますますパパラッチ的な報道に身を染めていくことになるのではないか。で、最後に待っているのは「死」だけだ。だから、早急な治療が必要だ。そんな時期に来ているのではないか?

その手段、ひょっとしたらSNSのようなメディアが持っているかもしれない。「毒をもって毒を制す」といった具合に。


若手コメンテーターの捕鯨文化否定発言

昨年12月21日、日本政府はIWC(国際捕鯨委員会)から脱退、本年七月から商業捕鯨を再開すると宣言した。これが国内外で波紋を広げている。ただ、以前は「海外(捕鯨反対国)=日本の捕鯨反対」、「国内=捕鯨容認」という図式が強かったのだけれど、最近はどうも様子が違うように思える。テレビを見ていても、コメンテーターたちの論調は、ゆっくりとではあるが次第に捕鯨反対の方向にシフトしているように僕には思える。

その際、捕鯨を反対する理由の一つに

「果たして、そもそも捕鯨って文化なのか?」

という、ちゃぶ台返し的なモノノイイがある。そしてこの論調、若手の論客に顕著なのだ。「そもそも、そんなものがうまいのか?」的な発言すら登場する。何のことはない、この世代は子ども時代の学校給食で鯨の竜田揚げのようなメニューを目にすることがなかった。だから食文化としての鯨の経験が無い。言い換えれば食文化=鯨肉という図式、リアリティを持ちあわせていないのである(年配の鯨肉給食経験者の捕鯨文化否定者の中には「あんなもの、旨くないでしょ!」と一刀両断していた者もあったが、これじゃコメンテーターは失格。好みで判断しているだけだからだ。これじゃ辛子蓮根、くさやの干物がうまくないといって文化ではないと否定するのとまったく同じことになる。このしゃれが通じるのは喝!おじさんだけだ)。

文化論的に考えると、こうしたモノノイイは極めて危険な主張と判断しざるを得ない。捕鯨にまつわる文化は様々あるが、ここではわかりやすいように食文化に限定して考えてみたい


捕鯨文化否定の危険性


捕鯨文化否定の危険性は二つの点から指摘できる。

その①:マイノリティー化したものは、もはや文化ではない

国際的な批判が高まる中、それでも調査捕鯨という、わけのわからないイクスキューズをもって捕鯨し、少量販売を続行し続けたが、当然のことながら鯨肉は次第に大衆の食卓には姿を現さなくなった。かつての鯨大和煮缶詰、鯨ベーコン、さらし鯨、前述の鯨の竜田揚げといった食文化はマイノリティーに押しやられた。そして、気がつけば、その存在をほとんど知らない世代がマジョリティーに。で、その結果のモノノイイが「果たして、そもそも捕鯨って文化なの?」なのだ。

これは、かつて文化であったものが、いったんマイノリティ化したら、それはもはや文化ではないという立ち位置だ。だったら、世界遺産に名を連ねようとするような文化のそのほとんどは、もはや全て文化ではない。富岡製糸工場?稼働してないよ!、アイヌ?ほとんど混血化してしまってるよ、能?そんなの誰が見るの?、講談師?どこでやってんの?。つまり、捕鯨文化を文化として疑問視、あるいは否定する立場は、同じ論法でこれらのマイノリティ文化も同様に疑問視、あるいは否定する必要がある。言い換えれば文化財保護法など不要、弱者は切り捨てろというわけだ。捕鯨のように否定されないのは、それらの存在そのものではなく、それらを巡るポリティックスに基づいているからに他ならない。

その②:文化をマイノリティー化する環境管理型権力

そして、もっと恐ろしいのが、この捕鯨文化の弱者化が権力によって作動されていることだ。もっとも別に政府が高圧的に権力を作動させているわけでは無い。これは社会学者の大澤真幸や哲学者の東浩紀が提唱している環境管理型権力/アーキテクチャーの作動に基づくものだ。

環境管理型権力の作動はM.フーコーの提唱した規律訓練型権力の次の段階にやってくる。規律訓練型権力は、有無を言わさず、ある行動を権力を媒介に強要することだ。その行動の判断基準について受け入れる側の立場は考慮されない。たとえば日本人のほぼ全員がこの権力によって身体に刻印されたしぐさが「体育座り」だ。あの座り方では背が丸まってしまう、大きな声が出せない、手が動かせない、手で足をロックしているために足を動かせない。当然、自然な着座の姿勢ではないし、日本人以外はほとんどやらない。だが、これは狭いスペースに人間を押し込め黙らせておく、つまり管理するためには最適の姿勢なのだ。しかし、我々はこれをいつ、どこで学んだかを知らない。無意識のうちに、自然とこのような姿勢を取るようになってしまったのだ。

もちろん、このような行為を最初に取らされた人間は、この着座スタイルに違和感を覚えたはずだ。だが、何度も繰り返す内に馴れた。ところが、である。この規律訓練が何世代にもわたって続くと、それは環境管理型権力へと転じていく。周辺が皆このような姿勢を取っているので、無意識のうちに自分も同様のポーズを取るようになるのだ。そしてそれ以外のオプションはない。しかもこれを受け入れる側は、何ら違和感を感じることなく、自然とそのような身体、行動、思考パターンを身につけていく。現在、大学の学祭では、そのほとんどがアルコールフリーになっている。そんな学祭に馴染んでいる学生たちにかつての、いわば「フリーアルコール状態」だった学祭の話をすると「へぇ―、昔は学祭でみんな酒飲んでたんだ」みたいな返事が返ってくるのだけれど、これはこのタイプの権力作動の典型だ。

コメンテーターに求められる文化を相対化して観る視点

若手論者の「捕鯨、そもそも文化?」のモノノイイはこの環境管理型権力が完成された彼岸としての発言だろう。つまり権力によって捕鯨文化が否定され続け、次第に、この規律訓練によって多くの人間が馴化し、やがて次の世代が「捕鯨≠文化」という認識を何ら存在論的問い、つまり捕鯨文化に対する議論を振り返ることなく作動させる。

だが、コメンテーターって、そもそもこうした見えない権力に警鐘を与えるのが、その役割ではないのか?

もし、世界がこれと違っていて「クジラは海産物を大量に摂取していて、その量は漁獲高を遙かに超えているのだから、間引きし、海洋の生態系バランスを維持するべきで、商業捕鯨は、そのために好ましいこと」という認識であったとしたら?そしてそれが認められていたとしたら?当然、鯨は相変わらず日本人の重要なタンパク源として現在も重宝され続けているだろうし(つまり給食に鯨の竜田揚げがそのままラインナップ化する)、環境管理型権力によるマイノリティー化が進んでいないので、「そもそも捕鯨は文化なのか?」と疑問を呈するような若手も登場してはいないだろう。それは「たこ焼きはそもそも文化なのか?」という疑問と同じくらいナンセンスな問いになっているはずだ。

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