勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

一部に引き続き「半沢直樹」第二部が好調だ。もっとも今回は、その仕立てが一部とは少々異なっている。しかも、この違いは一部を踏まえており(設定や主要配役のキャラクターが視聴者に認知されていることが前提にドラマが展開している)、それが人気に繋がっている。そこで、今回は第二部の魅力についてメディア論的に分析してみよう。キーワードは「悪役」と「歌舞伎」だ。


「世界」と「趣向」

歌舞伎では作品の構成は「世界」と「趣向」に分類される。「世界」は作品の型=設定・世界観やストーリー、言い換えれば作品が何を伝えようとしているか、つまりWhatに焦点を当てるマクロな側面。一方、「趣向」はその世界=設定の中で、作品がどのようにアレンジされるのか、役者がどのように演じるか、つまりHowに焦点を当てるミクロな側面だ。「半沢」第二部においては後者=趣向(とりわけ役者の側面)が突出しており(第一部には「大和田への復讐」というマクロなテーマが設定されていた)、それが視聴者に見ずにはいられなくさせることに成功している(逆に「世界」の側面については第一部よりも固定化されている)。


「半沢直樹」のストーリーは実に荒唐無稽という表現がしっくりくる。実際の銀行業務においては、あのような状況が発生することはない。つまり、プロパーの側からすれば「ありえない世界」。だが、ファンタジーと考えれば「面白ければナンデモアリ」なので、何ら問題はない。言い換えれば「法律的に見れば半沢の行為はダメである」というような批判こそ、逆に「荒唐無稽な物言い」となる。そして、ポイントは、当然ながらこの荒唐無稽な世界にどのような趣向が凝らされるかにある。


それでは第二部での「趣向」の醍醐味を他の作品群=ジャンルとの比較によって段階的に考えてみよう。




「水戸黄門」における世界と趣向


先ずはじめに「半沢」同様、荒唐無稽な世界=設定が明確に設定されていて、それでいて「半沢」より劣る、いわば「否定すべき作品=悪役」として「水戸黄門」を取り上げてみよう。ご存じのように、この作品は黄門様一行が各地を漫遊し、その都度、訪れた場所で発生した事件を解決してみせるという展開。悪役は代官や悪徳商人(その典型は越後屋)で、被害者は庶民。この一連の事件が40分ほどの放送時間内で解決する。ストーリーはワンパターンで、世界=設定は固定されている。つまり善と悪が明確に区別され、両者の間に黄門様一行が介入していくのだが、この時、趣向、つまり水戸黄門世界を魅力的に見せる役割はもっぱら黄門様一行に委ねられている。言い換えれば悪役と庶民はワンパターンで個性がなく、こうした安定した世界=設定の中で一行が様々な展開を見せる点=趣向に魅力がある。


こうした、安定した「世界」は、テレビ番組に対するメディア・リテラシーがまだ低かった時代には視聴者のニーズに十分耐えうるものだった。だが、TV以外の娯楽メディア、とりわけインターネットが視聴者の思考様式を多様化・相対化して視聴者のコンテンツに対するメディア・リテラシーを引き上げた結果、こうした展開=趣向は次第に「単なるワンパターン」にしか思えなくなっていく。そして、それが「水戸黄門」の失墜をもたらすこととなった。


ディズニーにおけるヴィランズ(=悪役)の個性化

こうした世界=設定を維持しながらも趣向を一歩前進させているのがディズニー作品群、とりわけプリンセス物だ。「水戸黄門」同様、その世界は荒唐無稽だ。基本パターンはプリンセスがヴィランズ(ディズニーでは悪役はヴィランズと呼ばれる)によって苦境に追い込まれるが、最終的にはプリンスがやって来てヴィランズを滅ぼし一件落着となる。その基本解決方法は「真実のキス」に基づいている(ただし現在、世界=設定にはジェンダーやレイシズム問題を踏まえてアレンジが施されるようになっている)。


要は「水戸黄門」の悪役=ディズニーのヴィランズという図式になるのだが、事情は少々異なっている。視聴者の誰もが、これが悪役=ヴィランズであると容易に判るのは水戸黄門と同様だが、ディズニー作品の場合、ヴィランズに個性が付与されるのだ。これはわれわれが水戸黄門の作品群を思い浮かべる際、似通っているために、個々の悪役を思い返すことが難しいことを踏まえるとコントラストが明瞭になる(言い換えれば、悪役は「悪代官」と「悪徳商人」という普通名詞に集約されてしまう)。一方、ディズニーの場合、女王、マレフィセント、アースラ、ガストン、ジャファー、スカー、フロロー、ゴーデルといったヴィランを思い浮かべることは容易だ。悪役にもスターとしてのキャラクターが付与されているのだ(事実、ヴィランズはディズニーランドの人気者でもある)。だから、オーディエンスとしては「今度はどんなヴィランが登場し、どんな悪行を展開するのか?」に関心が向かう。



歌舞伎における役者の個性化=趣向を楽しむ


歌舞伎の場合、さらに「この役柄を誰がどのように演じるのか」に観客の関心が加わっていく。言い換えれば世界=演目の物語に対して趣向=役に対する役者のパフォーマンスという区分がある。そして観客は、実は物語のことなどとっくに熟知しているので、関心はむしろ趣向に向かうのだ。だから称賛として「成田屋!」「音羽屋!」という役者の屋号が観客席から投げかけられる。もちろん、これは役者個人のパフォーマンスに向けられたものだ。



趣向重視が功を奏した「半沢」第二部


「半沢直樹」第二部も、視聴者の関心はもっぱら悪役にある。しかも、水戸黄門ではなくディズニーのヴィランズ的な個性あるキャラクターにその焦点が向けられる。どれだけ悪行の限りを繰り返し、そして、最後にはどうやって半沢に叩き潰されるのか。だから、実は「やられたらやり返す、しかも倍返しだ!」という半沢のセリフは、実は倍返しではなく、ただの仕返しにすぎない。「倍返し」に思えるのは、悪役が思いっきり悪行の限りを尽くし、半沢に向かって悪態をつきまくるからだ。いわば「悪ければ悪いほど、この悪役が倒されたときには究極の仕返し=倍返し」に見えるという趣向なのだ。個性ある悪役に視聴者はネガティブな意味での感情移入(つまり「憎たらしいヤツ」)を行う。だからこれが、いわば「成敗」された瞬間、カタルシスを覚えないではいられない。憎たらしければ憎たらしいほど悪役=ヴィランとしての魅力は高まる。


ただし「半沢」はディズニーよりも、もう一歩先を行く。それが歌舞伎役者に期待される「役割に対する役者の趣向=パフォーマンス」に他ならない。水戸黄門の悪代官・越後屋的な定型に、ディズニーヴィランズ的キャラクターを配置した役割を割り振られた役者たちが、これをどう演じるのか。最終的に、最も関心が向かうのはここになる。とりわけ第二部がそうだ。だから、二部の主役は半沢というよりも、むしろ悪役なのだ(二部の半沢=堺雅人の役割は刑事コロンボや古畑任三郎に近く、悪役を引き立てる役所になっている。半沢が悪役をもり立てる決め顔は、言うまでもなく、追い詰められたときの「苦虫を噛みつぶしたような表情」だ)。だから、ここで視聴者は悪役たちが見事に「悪」を決めて見せたとき、思わず「成田屋!」「音羽屋!」的な声を心の中でかけたくなるのだ(そしてこれはSNS上で実際に繰り広げられている)。


ネット上で話題になっている台詞を取り上げてみると、これはよくわかる。大和田暁役=香川照之の「お・し・ま・いdeath」「施されたら施し返す、恩返しです」(「やられたらやり返す、しかも倍返しだ」と対)「詫びろ、詫びろ、詫びろ」「銀行沈没」、伊佐山泰二役=市川猿之助の「土下座野郎」「オマエの、負けぇーっ!」、黒崎駿一役=片岡愛之助の「あ~ら直樹、お久しぶりね。ここでも随分と『おいた』しているんじゃないの?」(オネエ言葉)と、盛り上がっているのはもっぱら悪役たちの台詞なのだ。しかも、ものすごいイントネーション、形相、つまり極端な「わざとらしい」演技で。そして、ここには役者たちのアドリブもふんだんに盛り込まれている。ということは……これって歌舞伎のそれ以外の何物でもない(実際、歌舞伎役者が登場するのは「何をか言わんや」でもある)。その他、悪役を演じた南野陽子や江口のりこの憎たらしい演技もやはり話題となった。



やりたい放題をはじめた悪役たちの痛快さを楽しむ


これがまだ視聴者のメディア・リテラシーが未熟なかつてであったならば役割=役者本人の性格とみなされるのがもっぱらだったので、こんな酷い悪役を任されたらイメージが固定してしまい、仕事がもう来ない恐れもあった。だが、今や時代が違う。現代の視聴者は「役割」と演じる「役者の人格」を明確に区別している。だから視聴者は、役者の趣向に注目する。それゆえ、こうした悪役を役者たちは快く引き受けているのだ。「どれだけ憎らしい、どれだけ倒してやりたい、つまり、どれだけ倍返しにみせるように演技するか?」、役者たちはここに演技を集中する。とりわけ香川照之などは完全に「やりたい放題」の状態。第一部で視聴者は大和田=香川のキャラクターを熟知しているので、よい意味で香川はそれを十分知りつつ、さらにこれをデフォルメしていく。その奔放さに視聴者は憎らしさを爆発させるとともに狂喜する。しかもこれを「香川照之」という役者が嬉々として演じていることも十分承知していて、だから憎らしいと思うと同時に「今度は、香川=大和田はどんなふうに悪態をついてくれるだろうか?」とワクワクしながら次の台詞と演技を待ちわびるのだ(ちなみに、これと同様の図式が黒崎=片岡愛之助にも該当する。片岡は第一部で注目を浴びその後TVやCMに引っ張りだことなったが、今や視聴者は片岡が半沢の中で「オネエ」を演じていることを熟知している。だから「今度の片岡=黒崎オネエはどんなふうに半沢に『逆おいた』をするのかな?」となる)。そして、演技はますます極端で仰々しくなっていくのだが……これは要するにデフォルメと省略を基調とする歌舞伎のスタイルにどんどんと近づいていくことに他ならない。


実際、ソーシャルメディアをチェックしてみると「半沢直樹」に関する話題は、もっぱら悪役たちの演技に向けられている。言い換えると(繰り返しになるが)半沢は悪役たちを引き出すメディア的な役割に今回は引き下がっているようにも見える。さながら「ドラえもん」という作品の主人公が、実は野比のび太であるように。そう、今回の「半沢直樹」、その主人公は悪役たちなのだ(ということは、ここで悪役を演じた役者たちは、その評価によって第一部の片岡愛之助同様、仕事のオファーがどっとやってくることになるだろう。さしあたり江口のりこあたりが起用される可能性大と見た)。



半沢直樹は現代版の歌舞伎

第二部はある意味で一話完結的な側面が強い。第四回以降、毎回悪役が殲滅されている。この辺は水戸黄門的な展開で、視聴者としても単純で判りやすい。ただし、制作側はこれだけでは飽き足らず、今回はこれに変奏を加えている。しかも、その典型例が、これまた大和田=香川の役回りだ。大和田は半沢の天敵だが伊佐山打倒の際に二人は共闘している。しかも、互いの憎しみはそのままに。また第七回の際も大和田は江口のりこ演じる白井政務次官打倒にも加担している。そう、大和田は敵なのか味方なのか判らない。これは段田安則演じる紀本平八も同様だ。こうした狂言交わし的でミステリアスな存在が、ややもすると一本調子に陥る恐れのある世界=設定=物語にスパイスを加え、第一部からの半沢ファンを混乱に陥れることで、却って魅力を牽引することに一役買っている。


こうなると、もはや「半沢直樹」は完全に歌舞伎と言っても過言ではないだろう。もちろん現代版のそれとして。いっそのこと、これを歌舞伎にしてみたらどうだろう?大ウケまちがいなしだと思うのだけれど(笑)


さて、今週もこの「究極荒唐無稽歌舞伎悪役ドラマ」を楽しむこととしよう。





不倫は文化だ

いわゆる「文春砲」によって複数の不倫を暴露されてしまったお笑いユニット・アンジャッシュの渡部建。それにしても、なぜここまで渡部はバッシングされなければならないのか。今回はこれをメディア論的視点から考えてみたい。


まず、前提を考えてみよう。不倫自体は「文化」である。石田純一が思わず口を滑らした有名なセリフだが、婚姻という制度・文化があるからには必然的に不倫も文化として存在する。それゆえ、あちこちに不倫は発生している。

さて、もしあなたが不倫してそれが相手にバレたらどうなるだろうか。不倫するということは、当然伴侶(妻・夫)が存在するわけで、夫婦間には当然大きなトラブルが発生する。しかし問題が波及するのはその周辺までだ。それ以外の人間にとっては「他人事」でしかない。


スキャンダルとしての不倫

一方、芸能人となる状況は違ってくる。

オーディエンスはメディアに頻繁に露出する人間・とりわけ芸能人をイメージとして捉えらえている。優しい人、賢い人、セクシーな人、面白い人、強面な人……。こうしたイメージをいわば役割として演じているわけだ。これによって芸能人は支持を取り付け、社会的地位や富を獲得する。だが、それは実際の自分とは異なっているということでもある。


物語タイプ

かつての俳優パターンで説明してみよう。典型的な人物は田村正和である。田村にはその代表的な役に眠狂四郎や古畑任三郎がある。田村はドラマの中でこれらの役割に集中する。その一方、私生活はまったくといってよいほど明らかにしない。つまり田村は実際の”田村”と俳優=役割としての「田村」を明確に区別している。それゆえ、我々が知りうるのは当然後者、つまりイメージとしての「田村正和」である。


このような区分が明確に敷かれている場合、”田村”が私生活においてどのような存在であろうとあまり問題にはならない。たとえば”田村”が不倫しようとも、今回の渡部ほど大騒ぎになることはない。オーディエンスと田村の間にある種のコンプライアンス(正確な定義は「法令遵守」だが、ここでは一般に用いられる「暗黙の約束を守る」という意味でご理解いただきたい)が存在するからだ。つまり、田村は私生活を見せないことで「役者ですので演技をみてください。プライベートは関係ありません」というメッセージを発し、一方オーディエンスの方も「「田村正和」、つまり眠狂四郎や古畑任三郎を演じている田村にのみ関心を持ちます」という”暗黙の了解”が成立している。こうした、「役者としての存在(=イメージ)のみに注目を寄せさせる芸能人」を物語タイプと呼ぶ。このタイプで、一般に役割と本人は別の存在として認識される。


パーソナリティタイプ

一方、タレントと呼ばれる芸能人はこれとは異なる。彼らもまたイメージを売り物にしているが、このイメージは本人の人格とリンクしている。仮にこれを田村にあてはめれば「田村正和という人物の人格は眠狂四郎・古畑任三郎」、すなわち”田村”=「田村」ということになる。「田村」というイメージは”田村”という担保によって保証されていることになる(もちろん、実際はそうではない)。この場合、田村は二つの田村を同一のものとすることがオーディエンスに向けてのコンプライアンスの課題となる。こうした「芸能人としての存在(=イメージ)と人格を統合させる芸能人」をパーソナリティタイプと呼ぶことにしよう。


オーディエンスとのコンプライアンス怠った渡部

渡部は典型的なパーソナリティタイプだ。お笑いユニット・アンジャッシュのメンバーとして芸界にデビューしたものの、ここ数年でのブレイクはむしろバラエティタレントとしての活動による。グルメ、映画、高校野球、料理などの蘊蓄を披露し「賢い、フェミニン(女性と男性性のバランスが取れている)」なイメージを獲得、2017年佐々木希との結婚後には「家庭重視」のイメージもオーディエンスに抱かれるようになった。パーソナリティタイプの芸能人ゆえ、オーディエンスは当然”渡部”=「渡部」と認識していた。


ところが今回の不倫騒ぎで、この設定が完全に崩壊してしまった。不倫は”渡部”がやったこと。しかし”渡部”=「渡部」とオーディエンスは認識している。ようするに、これは渡部はコンプライアンス違反をしたわけで、オーディエンスからすれば「裏切られた」ということになる。


怒りに駆られたオーディエンスは、こうなると新たな”渡部”=不倫する渡部にもとづきながら、別のイメージを反動的に形成するようになる。「渡部は我々をずっと騙し続けていたのだ。奧さんの佐々木希も含めて」。こうした認識に基づくことで、今度は「賢い」は「ずる賢い」、「フェミニン」は「ジェンダー的に中立な立場を装いながら、女性を陵辱し続ける野獣」に変化する(ちなみに、これも新たに形成されたイメージであることをお断りしておく)。とりわけ、これまで獲得していた女性からの支持は完全に失われてしまったわけで、もはや女性を意識した番組に出演することは不可能だろう。ポジティブなイメージがすべてネガティブなイメージによって読み替えられてしまったのだから。つまり、渡部が蘊蓄を語れば「人を騙そうとして企んでいる」、女性にエールを送るような発言をすれば「アンタになんか騙されないよ」というのがオーディエンスの基本的立ち位置となる。


不倫とイメージ:その3パターン

比較のために同様に不倫スキャンダルでメディアを賑わせた人物を3名ほど上げておこう。それぞれ微妙にイメージの再定義が異なっている。


火野正平:自らのパーソナリティを役者のイメージに

古くは70年代の火野正平があげられる。女性タレントをとっかえひっかえし、プレイボーイ、女性を弄ぶ役者としてバッシングを受けたが、本人は意に介さなかった。そこで火野にはチンピラ、遊び人的なイメージが定着。それが却って火野の役者人生を彩ることになった。火野は役者という本来ならば物語タイプである役割をパーソナリティタイプによって翻し、今度は素の”火野”に基づいて、役者「火野」のイメージを打ち立てることに成功したのだ。ちなみに、これは2011年から放送されているNHK BSプレミアムの番組『にっぽん縦断 こころ旅』においても反映され、長寿の人気番組となっている。ここでも、火野が演じている(素?)のは「年老いたチンピラ」である。


石田純一:チャラいイメージを不倫騒動によって相対化→物語タイプからパーソナリティタイプへ

二つ目は、ご存じ石田純一である。石田は松原千明が妻であった際にファッションモデルの長谷川理恵と不倫し、その際「不倫は文化」というフレーズによってバッシングを引き起こしたが、その後芸能界での地位復活に成功した。これは石田にプレイボーイ的なチャラいイメージが物語タイプに付着していたことが”逆”担保となったためだろう(主演映画に『愛と平成の色男』(1989)がある)。そして東尾理子との結婚後、「チャラい」というパーソナリティを形成するに至る。結婚時には理子の父親・東尾修に「すいません」と謝罪。新型コロナウイルス肺炎から回復した直後のインタビューに際しても謝罪している。軽率が、いわばキャラとして認知されたのだ。また、肺炎インタビューでは渡部の件でコメントを求められてもいるが、メディアが本件について石田に問い合わせるのは、言い換えれば、かつての石田の不倫がメディアによって相対化されてしまっていることを示唆している。いまや石田純一は役者ではなく「チャラい」という典型的なパーソナリティタイプなのだ。もはや役者のイメージは弱い。


東出昌大:物語タイプとパーソナリティタイプの混在によって窮地に

一月に暴露された東出昌大の唐田えりかとの不倫スキャンダルは渡部の例と類似している。東出の妻は杏で佐々木希同様、大物女優(二人とも妻の方が知名度が高い)。だが東出の場合、渡部とはより比較的症状が軽い。


東出はファッションモデル・俳優である。イケメン男優として、与えられた役割もスティディで誠実なタイプのそれだった。だが不倫はこのイメージを覆す。”東出”≠「東出」という認識がなされてしまったからだ。それゆえ、今後はこの手のタイプの役割を振られることはないだろう。東出はドラマ以外にドキュメンタリーやバラエティなどにも出演するようになっており、こちらでは自らのパーソナリティを露出しているが、メインはあくまで役者で、こちらはサブ。そして、こちらに関してはさほど露出しているわけではないのでパーソナリティタイプの一般的認知度は低い。あくまで物語タイプの範疇に収まる。ただし田村と違い”東出”を完全には隠蔽してはいない。そのことが結果としてイメージの失墜に繋がった。ということは、結果として東出は、今後自らが役者として演ずる役割を変更していくことで芸能人生命をつなぎ止める可能性が高い。



渡部に、未来はない

さて、再び渡部の話に戻ろう。渡部の場合、芸能人としてやってしまったことは極めて致命的であると言わざるを得ない。前述したようにコンプライアンス違反を犯し、オーディエンスを完全に裏切るかたちで不倫が一般に認識されてしまったからだ。行為がよりキャッチーでスキャンダラスであったこと(六本木ヒルズの多目的トイレでの行為云々)、佐々木希が多くの女性から支持を受けていることも(女性からすれば、自分たちと、自分たちの支持する佐々木双方を裏切ったことになる)火に油の状況を生んでしまっている。


渡部はなぜこんな状況に陥ったのか?メディア論的に渡部の心理を分析すれば次のようになる。パーソナリティタイプ、つまり渡部は”渡部”=「渡部」という役割を演じることでブレイクに成功した。しかし、この“渡部”は実は真の渡部でなく,これもまた作り上げられた偽物の”渡部”(=「素」というイメージの”渡部”)で、これをイメージとしての「渡部」とイコールと見せかけること,言い換えれば二つのイメージを重ね合わせることによって成功を獲得した。だがそのことに自らは気づいていなかった。やがて渡部(真の渡部)は“渡部”=「渡部」が獲得した権力に振り回されるようになる。「オレはエラい。何をやっても大丈夫だ」。”内なる権力構造=渡部<“渡部”=「渡部」”に基づいて、渡部は自らの欲望を解放し始めるのだ。「芸能界などチョロいもんだ」と認識したのである(相方の児島が渡部を「天狗だった」と指摘している)。それが複数の不倫、そして女性を女性とも思わないような扱いを結果した。だが、渡部は“渡部”=「渡部」によって自らが乗っ取られているため、これに気づかない。自覚するのは、文春砲によってこれら詐術が一般に知れ渡ることが判明した時で、その頭の回転の速さゆえ早々に活動自粛を申し出た。しかし残念ながら”時すでに遅し”。オーディエンスは怒り心頭に発した。そして自滅の途へ。それは、さながら『笑うせえるすまん』の犠牲者のようにすら思える。まあ、自業自得なんだが。


渡部には申し訳ないが、これは典型的な詐欺の手口だ。詐欺師=渡部、引っかかった人=オーディエンスという図式だ。自らを「良い人」に見せかけてオーディエンスから人気というカネをむしり取ったのだ。そして渡部は詐欺師の中でも最も有能な詐欺師の一人だったとも言える……


「最も有能な詐欺師は誰を騙すのが上手いのか?」

「それは……自分である。有能な詐欺師は自らが詐欺を犯していることに気づいていない。」

“敵を欺くには、先ず自分から”なのである。


”芸能人はイメージが命”(一般人は、関係ありません)

渡部建。芸能界での彼の未来は、多分、ないかな。強いてあるとすれば、実写版の『笑うせえるすまん』が作られ、酷い目に合うキャラクターあたりを演じた時だろう。その際には本当の渡部と新しい役割としての「渡部」(この場合は欲望に翻弄される被害者役というイメージ)がパーソナリティタイプとして統合されるだろう。

(ちなみに、僕本人は渡部というタレントに感情的な思い入れは一切ありません。)

新型コロナウイルス蔓延という危機的な状況の中、街中でマスクを着用する人の割合が極端に増えてきた。外に出ることはめったにないが(大学のキャンパス=仕事場へ行く場合、自家用車を利用している)、買い物に出かけた時に、この変化に気づかされた。マスク着用率が増えたこと自体は危機意識が高まったことを傍証するといえるだろう。


マスクについては自らに対する直接的な恩恵は、どうやらほとんどないらしい。つまりマスクを装着しようがしまいが、感染するときは感染するという。


しかし、それでもやはりマスクの効用はある。「自らのコロナウイルスを他者にうつすことを予防する」点だ。マスクをしても自分自身には恩恵が無い。ただし、マスク着用は、社会に対しては大いに効用ありと言えるのだ。しかも、この効用が大きい。


ご存じのように新型コロナウイルスは、いわば「ステルスウイルス」だ。罹っていても症状のない人間が大多数。しかも、そのまま終わってしまうケースが大半。しかし、こうした人間は、結局、自分自身は大事に至らなくても、周囲に伝染しまくっている、しかも本人も自覚がないうちにということになる。だからStay homeで、外出の必要のある際にはマスクをしようというわけだ。


くりかえそう。マスクとは「人から菌をもらう」のではなく「人に菌を振りまかないようにする」もの。「情けは人のためならず」ならぬ「マスクは自分のためならず」なのだ。でも、これは結局、「情けは~」のことわざと同様の教訓を与えてくれる。つまりマスクは自分の防護には役に立たないが、自分が積極的に付けることによって、それが最終的に多くの人への感染を防ぐ予防措置となる。全員がマスクをすれば、感染率はグッと下がる。言い換えれば「自分がマスクをすることは、巡り巡って自分への伝染を防ぐ、さらにはウイルスを退散させることになる」。よって、マスクをすることは極めて正しい。


ところがで、ある。


僕のマンションからは近くに公園が見える(部屋が14階にあるので、見下ろせる)。で、公園を眺めてみると……結構な数の子どもたちが遊んでいるのだ。しかもマスクなしで。スーパーでもこれは同様だ。家族でやって来て(そもそも家族でやって来ること自体が間違いなのだが)、親はマスクをしているが子どもはマスクをしていないというケースが大半なのだ。「子どもは感染しても大事に至ることがほぼ無いから大丈夫」ということなんだろうか?


しかし、子どもこそ最も危険な感染源になってしまう可能性があることを肝に銘じておいた方がいい。子どもは体力的に強いから症状が出にくい。伝染していても元気に歩き回る。そして活動が活発ゆえ、歩き回る範囲は大人よりもはるかに広い。しかも社会性がまだ未発達なので空気を読めない。大人の迷惑顧みず、あっちこっちを歩き回る。これがマスクをしないで徘徊するということは……病原菌をばらまく元凶の一つとみなされても仕方がないのでは?

しかし、これは子どもの責任ではない。子どもは、散らかしたり、遊んだりするのが仕事なのだから。責任はむしろ、大人にある。だから、ここは是非とも親に言っておきたい。あなたの命のために、そして皆さんの未来のために、子どもにもマスクをさせてください、と。

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