勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

物議を醸す白鵬のパフォーマンス

大相撲名古屋場所、全勝同士の白鵬と照ノ富士の優勝決定戦は白鵬が制したが、この取り組みが物議を醸している。問題は、もっぱら白鵬にある。


ポイントは


・時間いっぱいになったにもかかわらず、なかなか蹲踞の姿勢をとらなかった。

・両者なかなか手をつかず、最終的に照ノ富士が両手をつき、その後、白鵬が右手をつき、さらに左手でチョンと手をつくことで取り組みが開始された。

・立ち会い直後、白鵬は目くらませ的に左手を照ノ富士の顔の前に出し、次いで右腕で豪快にかち上げを行った。

・勝負の後、ガッツポーズを見せた。


伝統か?ルールか?

これら白鵬の一連のパフォーマンスについての批判は、専ら「横綱としての品位に欠ける」という点に集中している。最高位としての横綱の伝統的なあるべきかたちは、こうしたスタンドプレーはやらず、むしろ「受けて立つ」という姿勢にある。それこそが相撲という文化であり、横綱の役目であり、美学である。とりわけ、カチ上げについては「あれじゃプロレス、エルボーだ」と非難された(取り組み中継の中で花田虎上(元若乃花)は「いただけない」と批判している)。つまり白鵬のパフォーマンスは伝統に反している。まあ、こんなところだろう。


一方、白鵬を擁護する立場もある。「そもそもカチ上げは違反ではない。だから、どこがいけない?本人は膝を庇いながら死に物狂いで頑張っているだけだ」というわけだ。脳科学者の茂木健一郎は白鵬を擁護し、そのパフォーマンスを「バリエーションの問題にすぎない」と一蹴した。茂木は、これも相撲というジャンルの多様性の一つであり、それゆえ伝統に対立するものではないと、主張する。要するに茂木は、こうしたバリエーションが伝統を継続させていく、言い換えれば新しい伝統を作っていくと言いたいのだろう。


「伝統かルールか?」、この辺に対立の焦点が当てられているというのが実際のところだろう(ただし、茂木の議論は、これに「文化=伝統とは何か」についての言及が加えられている)。


横綱はカチ上げをしてはいけない?

この対立図式、僕にとってはあまり興味深いものではない。「伝統か?ルールか?」という対立では視点がほとんどかみ合っていないからだ。そこで、もう一つ別の視点から(言い換えれば、二つを接合する視点から)白鵬のパフォーマンスについて考察してみたい。誤解を避けるために議論のポイントを一つに絞る。それは「横綱(この場合、白鵬)がカチ上げをする」ことの是非である。


僕の結論は「現状では横綱がカチ上げをやるべきではない」これである(ただし条件付でOK。理由は後述)。では、なぜ?それは白鵬が「横綱はカチ上げしてはいけない」とみなしている文化と同じ土俵を利用して、これを行っているからだ。そして、これは結果として取り組み自体をフェアなものではなくしている。つまり「暗黙のルール」に違反している。もっと言うと、このパフォーマンスは自己欺瞞・自己矛盾とすら言える。


誰が白鵬にカチ上げをした?

違反=自己欺瞞のメカニズムはシンプルだ。ポイントはたったひとつ「白鵬にカチ上げをやった力士がいない」点だ。相撲という伝統=文化では、前述したように「横綱は横綱らしくしなければならない」という黙契=暗黙のルールが存在する。それを守ることで伝統が維持されるとみなされている。ところが白鵬は「ルール違反でない」という別の論理でこの伝統を破っている(ご存じのように、カチ上げはもはや白鵬にとっては“得意技”のレベルにある)。その一方、対戦相手が白鵬にカチ上げをやるというシーンは、僕の記憶するところではお目にかかったことはない(あったとしても白鵬の方が圧倒的に数が多いので、気がつかないだけなのかもしれないが)。


白鵬のカチ上げは相撲の伝統=文化を利用することで成立している

なぜ、他の力士は白鵬にカチ上げをしないのだろう?それは白鵬が格上、しかも最高位の横綱であるからだ。つまり格下力士は「横綱に対してカチ上げをするべきではない」という認識を暗黙裡に前提している。そして、この認識は相撲という文化=伝統に基づいいる。


となると、次の図式が成り立つ。白鵬のカチ上げは「下位の者は横綱に対してカチ上げをやるべきでない」という伝統=文化を利用しつつ、白鵬自身は「横綱はカチ上げをやらない」という伝統=文化を破ることで成立している。こうなると、必然的にアドバンテージは白鵬に与えられる。対戦相手が伝統=文化に基づいてカチ上げをしてこないので、結果として白鵬がやりたい放題という「ハンデ戦」になってしまうからだ。こうした制度的側面を踏まえれば、白鵬のカチ上げがフェアではないことがわかる(社会学では、このような行為を「抜け駆け的逸脱」と呼ぶ。つまり”理屈には叶っているが、道理には叶っていない”)。それゆえ、多くの人々が不快を覚えるというわけだ。自らには明示化されたルール(「カチ上げは反則ではない」)を支持して暗黙のルール(「横綱はカチ上げをするような品位のないパフォーマンスをしてはいけない)を否定し、その一方で相手には暗黙のルール(「横綱にカチ上げをしてはいけない」)を適用させる。結果として白鵬は相撲の文化=伝統を利用することでカチ上げという有利な技を手中に収めているのだ。


白鵬のカチ上げを正当化するためには

では、白鵬のカチ上げを正当化するためにはどうすべきなのか。それは対戦相手が上下関係にかかわらずフェアな状態を創り出すこと、つまり「カチ上げ」という技による白鵬のアドバンテージをなくすことだ。やり方は二つある。


一つは「カチ上げのルール違反化」、つまり禁じ手にすること。これは極めて保守的なやり方ともいえる。


もう一つは、その反対で「カチ上げの全面解禁化」だ。つまり、地位の上下にかかわらずカチ上げをやってもいいと明言してしまうこと(暗黙のルールを否定してしまうこと)。これができれば白鵬にカチ上げで挑む下位力士も登場することができる。これは要するに茂木の主張するバリエーションの問題として片付けることができる。つまり、力士全員が手軽にカチ上げするということで相撲のスタイルが変容していく、それが新しい文化=伝統を作り上げていく。「やられたらやり返す、しかも倍返しだ!」的なバトルが繰り広げられることになるわけで、面白いかもしれない。照ノ富士も来場所、白鵬にカチ上げをやってみてはいかがだろうか?


さあ、みんなで白鵬にカチ上げしよう!って、収拾がつかなくなるかも?(笑)なんのことはない、これは相撲のプロレス化ということになるんだろう。まあ、それも新しい文化ということになるのだろうが。もっとも相撲はプロレスと違ってガチンコなので、ケガ人が絶えないという結果を生むことも容易に予想は可能だが……


というわけで、白鵬のカチ上げ、現状ではアウトなのだ!

社会学が標榜する科学的手続きの一つにアンケートがある。言うまでもなく、ある事柄の是非などについて賛成、反対などを問い合わせるものだ。数字にモノを言わせるこの手法、一見、科学的に思えるが、実はそうでもない。今回はアンケートという科学のあやしさについて考えてみよう。



59%がオリンピック開催に反対?

読売新聞(5月7~9日)、共同通信(5月16~17日)の二つがオリンピック開催の是非についてアンケートを実施した。その結果、「中止する」という回答はどちらも59%。

「そうか、やっぱり、一般人はオリンピック開催に否定的なのかな?でも、そうでもない人間が4割近くもいるんだ……」


回答の詳細は①中止する59%、②観客を入れずに開催する23%、②観客を入れて開催する16%だった。



東京五輪の開催について(読売新聞調べ) 


統計は無作為抽出、そして回収票数が多ければ多いほど正確と言われるが……だがこの調査の場合、どれだけたくさんアンケートを集めても、実は全然正確な答えにはならない。



統計調査では避けなければならない質問のスタイル:キャリーオーバー、ダブルバーレル

問題は回答項目が三択であることだ。「観客を制限して開催する」と「観客を入れずに開催する」のうち、後者二つは「やっぱり、やりたいですよね?」という誘導尋問になってしまっているのだ。「やらない」が一つなのに、「やる」が二つなのは明らかに公平ではない。これは統計ではキャリーオーバー効果と呼ばれる。回答する側には無意識のうちに「開催の方を選択するのがいいのかな?」と思うようになってしまうのだ。


こうしたバイアスを避けるためには、選択肢はまず「中止する」「開催する」の二択にする必要がある。こうすると誘導効果はなくなるので、おそらく「中止する」の割合は59%より高くなる事が予想される。


もちろん、だからといって観客の有無に関する質問を削除すべきといっているわけではない。これは次に、サブクエスチョンとして「開催すると答えた方にお伺いします。その場合、どちらの方式を採用すべきだと思いますか?」と訊き、回答項目として「観客を制限して開催する」と「観客を入れずに開催する」を用意する。これが正確なやり方だ。


いや、ちょっと待て。これだけだでも実はまだ不十分だ。というのも、そもそもの選択肢の中に不足部分があるからだ。たとえば「パクチーが好きですか」という質問があり、それに対する回答の選択肢が「好き」「嫌い」の二択だった場合を考えてみればいいだろう?当然、回答できない人が出てくる。「どちらでもない」と思った人が選ぶものがないのだ。さらに付け加えれば、もし回答者が「パクチー」の存在を知らなかったら「どちらでもない」すら答えられないことになってしまう。


つまり問題は「中止する」の方にもあるのだ。中止の方法をどうするかについても選択肢を設けなければならないが、それがない。この「中止」という言葉は二つの解釈が可能だ。一つは「延期」、つまり「今年は中止するけれど、来年以降に開催する」、もう一つは「キャンセル」、つまり開催そのものをやめる。で、どちらなのかわからない(これは統計ではダブルバーレル(二連発銃)と呼ぶ。前述したように一つの質問に二つの解釈が生まれてしまう状態)。



アンケートを修正すると、こうなる。

そこでアンケートに科学性を持たせるためには次の手続きが必要になる。


1.あなたは東京オリンピックを開催するべきと思いますか

 →①する、②しない

(ここでは、意味が曖昧になる「中止」という言葉は用いない)


2.「する」と答えた方にお伺いします。開催方法はどちらを採用すべきですか

 →①観客数を制限して開催する、②観客を入れずに開催する

3.「しない」と答えた方にお伺いします。その方法はどちらを採用すべきですか

 →①来年以降に延期、②キャンセル

で、こうすると、おそらく1の回答として「しない」はさらに増える可能性が高くなるだろう。


ちなみに、このやり方もアンケートとしては操作が一つ入っている。それは最初の質問項目に「わからない」がないことだ。この場合には「なんとかクリアカットな結果を抽出したい」という実施側の、いわば「無意識の願望」が含まれていることになる。アンケートは統計的処理の前に、これを作成した側のイデオロギーがどうしても含まれてしまうことを結果を見る側は踏まえておく必要がある。


大手だからといって、信じてはいけない

マスメディアの大手、読売新聞と共同通信が両方とも、こんな初歩的な間違いをして、その結果を堂々と公表している。ちょっと恐ろしい気がしないでもない。







一部に引き続き「半沢直樹」第二部が好調だ。もっとも今回は、その仕立てが一部とは少々異なっている。しかも、この違いは一部を踏まえており(設定や主要配役のキャラクターが視聴者に認知されていることが前提にドラマが展開している)、それが人気に繋がっている。そこで、今回は第二部の魅力についてメディア論的に分析してみよう。キーワードは「悪役」と「歌舞伎」だ。


「世界」と「趣向」

歌舞伎では作品の構成は「世界」と「趣向」に分類される。「世界」は作品の型=設定・世界観やストーリー、言い換えれば作品が何を伝えようとしているか、つまりWhatに焦点を当てるマクロな側面。一方、「趣向」はその世界=設定の中で、作品がどのようにアレンジされるのか、役者がどのように演じるか、つまりHowに焦点を当てるミクロな側面だ。「半沢」第二部においては後者=趣向(とりわけ役者の側面)が突出しており(第一部には「大和田への復讐」というマクロなテーマが設定されていた)、それが視聴者に見ずにはいられなくさせることに成功している(逆に「世界」の側面については第一部よりも固定化されている)。


「半沢直樹」のストーリーは実に荒唐無稽という表現がしっくりくる。実際の銀行業務においては、あのような状況が発生することはない。つまり、プロパーの側からすれば「ありえない世界」。だが、ファンタジーと考えれば「面白ければナンデモアリ」なので、何ら問題はない。言い換えれば「法律的に見れば半沢の行為はダメである」というような批判こそ、逆に「荒唐無稽な物言い」となる。そして、ポイントは、当然ながらこの荒唐無稽な世界にどのような趣向が凝らされるかにある。


それでは第二部での「趣向」の醍醐味を他の作品群=ジャンルとの比較によって段階的に考えてみよう。




「水戸黄門」における世界と趣向


先ずはじめに「半沢」同様、荒唐無稽な世界=設定が明確に設定されていて、それでいて「半沢」より劣る、いわば「否定すべき作品=悪役」として「水戸黄門」を取り上げてみよう。ご存じのように、この作品は黄門様一行が各地を漫遊し、その都度、訪れた場所で発生した事件を解決してみせるという展開。悪役は代官や悪徳商人(その典型は越後屋)で、被害者は庶民。この一連の事件が40分ほどの放送時間内で解決する。ストーリーはワンパターンで、世界=設定は固定されている。つまり善と悪が明確に区別され、両者の間に黄門様一行が介入していくのだが、この時、趣向、つまり水戸黄門世界を魅力的に見せる役割はもっぱら黄門様一行に委ねられている。言い換えれば悪役と庶民はワンパターンで個性がなく、こうした安定した世界=設定の中で一行が様々な展開を見せる点=趣向に魅力がある。


こうした、安定した「世界」は、テレビ番組に対するメディア・リテラシーがまだ低かった時代には視聴者のニーズに十分耐えうるものだった。だが、TV以外の娯楽メディア、とりわけインターネットが視聴者の思考様式を多様化・相対化して視聴者のコンテンツに対するメディア・リテラシーを引き上げた結果、こうした展開=趣向は次第に「単なるワンパターン」にしか思えなくなっていく。そして、それが「水戸黄門」の失墜をもたらすこととなった。


ディズニーにおけるヴィランズ(=悪役)の個性化

こうした世界=設定を維持しながらも趣向を一歩前進させているのがディズニー作品群、とりわけプリンセス物だ。「水戸黄門」同様、その世界は荒唐無稽だ。基本パターンはプリンセスがヴィランズ(ディズニーでは悪役はヴィランズと呼ばれる)によって苦境に追い込まれるが、最終的にはプリンスがやって来てヴィランズを滅ぼし一件落着となる。その基本解決方法は「真実のキス」に基づいている(ただし現在、世界=設定にはジェンダーやレイシズム問題を踏まえてアレンジが施されるようになっている)。


要は「水戸黄門」の悪役=ディズニーのヴィランズという図式になるのだが、事情は少々異なっている。視聴者の誰もが、これが悪役=ヴィランズであると容易に判るのは水戸黄門と同様だが、ディズニー作品の場合、ヴィランズに個性が付与されるのだ。これはわれわれが水戸黄門の作品群を思い浮かべる際、似通っているために、個々の悪役を思い返すことが難しいことを踏まえるとコントラストが明瞭になる(言い換えれば、悪役は「悪代官」と「悪徳商人」という普通名詞に集約されてしまう)。一方、ディズニーの場合、女王、マレフィセント、アースラ、ガストン、ジャファー、スカー、フロロー、ゴーデルといったヴィランを思い浮かべることは容易だ。悪役にもスターとしてのキャラクターが付与されているのだ(事実、ヴィランズはディズニーランドの人気者でもある)。だから、オーディエンスとしては「今度はどんなヴィランが登場し、どんな悪行を展開するのか?」に関心が向かう。



歌舞伎における役者の個性化=趣向を楽しむ


歌舞伎の場合、さらに「この役柄を誰がどのように演じるのか」に観客の関心が加わっていく。言い換えれば世界=演目の物語に対して趣向=役に対する役者のパフォーマンスという区分がある。そして観客は、実は物語のことなどとっくに熟知しているので、関心はむしろ趣向に向かうのだ。だから称賛として「成田屋!」「音羽屋!」という役者の屋号が観客席から投げかけられる。もちろん、これは役者個人のパフォーマンスに向けられたものだ。



趣向重視が功を奏した「半沢」第二部


「半沢直樹」第二部も、視聴者の関心はもっぱら悪役にある。しかも、水戸黄門ではなくディズニーのヴィランズ的な個性あるキャラクターにその焦点が向けられる。どれだけ悪行の限りを繰り返し、そして、最後にはどうやって半沢に叩き潰されるのか。だから、実は「やられたらやり返す、しかも倍返しだ!」という半沢のセリフは、実は倍返しではなく、ただの仕返しにすぎない。「倍返し」に思えるのは、悪役が思いっきり悪行の限りを尽くし、半沢に向かって悪態をつきまくるからだ。いわば「悪ければ悪いほど、この悪役が倒されたときには究極の仕返し=倍返し」に見えるという趣向なのだ。個性ある悪役に視聴者はネガティブな意味での感情移入(つまり「憎たらしいヤツ」)を行う。だからこれが、いわば「成敗」された瞬間、カタルシスを覚えないではいられない。憎たらしければ憎たらしいほど悪役=ヴィランとしての魅力は高まる。


ただし「半沢」はディズニーよりも、もう一歩先を行く。それが歌舞伎役者に期待される「役割に対する役者の趣向=パフォーマンス」に他ならない。水戸黄門の悪代官・越後屋的な定型に、ディズニーヴィランズ的キャラクターを配置した役割を割り振られた役者たちが、これをどう演じるのか。最終的に、最も関心が向かうのはここになる。とりわけ第二部がそうだ。だから、二部の主役は半沢というよりも、むしろ悪役なのだ(二部の半沢=堺雅人の役割は刑事コロンボや古畑任三郎に近く、悪役を引き立てる役所になっている。半沢が悪役をもり立てる決め顔は、言うまでもなく、追い詰められたときの「苦虫を噛みつぶしたような表情」だ)。だから、ここで視聴者は悪役たちが見事に「悪」を決めて見せたとき、思わず「成田屋!」「音羽屋!」的な声を心の中でかけたくなるのだ(そしてこれはSNS上で実際に繰り広げられている)。


ネット上で話題になっている台詞を取り上げてみると、これはよくわかる。大和田暁役=香川照之の「お・し・ま・いdeath」「施されたら施し返す、恩返しです」(「やられたらやり返す、しかも倍返しだ」と対)「詫びろ、詫びろ、詫びろ」「銀行沈没」、伊佐山泰二役=市川猿之助の「土下座野郎」「オマエの、負けぇーっ!」、黒崎駿一役=片岡愛之助の「あ~ら直樹、お久しぶりね。ここでも随分と『おいた』しているんじゃないの?」(オネエ言葉)と、盛り上がっているのはもっぱら悪役たちの台詞なのだ。しかも、ものすごいイントネーション、形相、つまり極端な「わざとらしい」演技で。そして、ここには役者たちのアドリブもふんだんに盛り込まれている。ということは……これって歌舞伎のそれ以外の何物でもない(実際、歌舞伎役者が登場するのは「何をか言わんや」でもある)。その他、悪役を演じた南野陽子や江口のりこの憎たらしい演技もやはり話題となった。



やりたい放題をはじめた悪役たちの痛快さを楽しむ


これがまだ視聴者のメディア・リテラシーが未熟なかつてであったならば役割=役者本人の性格とみなされるのがもっぱらだったので、こんな酷い悪役を任されたらイメージが固定してしまい、仕事がもう来ない恐れもあった。だが、今や時代が違う。現代の視聴者は「役割」と演じる「役者の人格」を明確に区別している。だから視聴者は、役者の趣向に注目する。それゆえ、こうした悪役を役者たちは快く引き受けているのだ。「どれだけ憎らしい、どれだけ倒してやりたい、つまり、どれだけ倍返しにみせるように演技するか?」、役者たちはここに演技を集中する。とりわけ香川照之などは完全に「やりたい放題」の状態。第一部で視聴者は大和田=香川のキャラクターを熟知しているので、よい意味で香川はそれを十分知りつつ、さらにこれをデフォルメしていく。その奔放さに視聴者は憎らしさを爆発させるとともに狂喜する。しかもこれを「香川照之」という役者が嬉々として演じていることも十分承知していて、だから憎らしいと思うと同時に「今度は、香川=大和田はどんなふうに悪態をついてくれるだろうか?」とワクワクしながら次の台詞と演技を待ちわびるのだ(ちなみに、これと同様の図式が黒崎=片岡愛之助にも該当する。片岡は第一部で注目を浴びその後TVやCMに引っ張りだことなったが、今や視聴者は片岡が半沢の中で「オネエ」を演じていることを熟知している。だから「今度の片岡=黒崎オネエはどんなふうに半沢に『逆おいた』をするのかな?」となる)。そして、演技はますます極端で仰々しくなっていくのだが……これは要するにデフォルメと省略を基調とする歌舞伎のスタイルにどんどんと近づいていくことに他ならない。


実際、ソーシャルメディアをチェックしてみると「半沢直樹」に関する話題は、もっぱら悪役たちの演技に向けられている。言い換えると(繰り返しになるが)半沢は悪役たちを引き出すメディア的な役割に今回は引き下がっているようにも見える。さながら「ドラえもん」という作品の主人公が、実は野比のび太であるように。そう、今回の「半沢直樹」、その主人公は悪役たちなのだ(ということは、ここで悪役を演じた役者たちは、その評価によって第一部の片岡愛之助同様、仕事のオファーがどっとやってくることになるだろう。さしあたり江口のりこあたりが起用される可能性大と見た)。



半沢直樹は現代版の歌舞伎

第二部はある意味で一話完結的な側面が強い。第四回以降、毎回悪役が殲滅されている。この辺は水戸黄門的な展開で、視聴者としても単純で判りやすい。ただし、制作側はこれだけでは飽き足らず、今回はこれに変奏を加えている。しかも、その典型例が、これまた大和田=香川の役回りだ。大和田は半沢の天敵だが伊佐山打倒の際に二人は共闘している。しかも、互いの憎しみはそのままに。また第七回の際も大和田は江口のりこ演じる白井政務次官打倒にも加担している。そう、大和田は敵なのか味方なのか判らない。これは段田安則演じる紀本平八も同様だ。こうした狂言交わし的でミステリアスな存在が、ややもすると一本調子に陥る恐れのある世界=設定=物語にスパイスを加え、第一部からの半沢ファンを混乱に陥れることで、却って魅力を牽引することに一役買っている。


こうなると、もはや「半沢直樹」は完全に歌舞伎と言っても過言ではないだろう。もちろん現代版のそれとして。いっそのこと、これを歌舞伎にしてみたらどうだろう?大ウケまちがいなしだと思うのだけれど(笑)


さて、今週もこの「究極荒唐無稽歌舞伎悪役ドラマ」を楽しむこととしよう。





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