勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

玄関


アキバと化したロサンゼルス・リトルトーキョー



20243月、8年ぶりにロサンゼルス、リトルトーキョーを訪れた。2016年に在外研究で1年ほど南カリフォルニアで生活したとき以来の訪問だったのだけれど、その変わりようには、本当に驚かされた。

繁華街自体がどうのこうのというわけではない。街のレイアウトはそのまま。驚いたのは人の数。ものすごい観光客で賑わっていて、もはやディズニーランド並みといっても過言ではないほど。8年前は寂れまくっていて、客も閑散としており、「この街も終わり?」という印象すらあったほど。それが一変していたのだ。

もう一つ驚いたのは、街並みが”リトルトーキョー”というより”リトルアキバ”化していたこと。あちこちに、ニメグッズ、キャラクターを扱う、いわゆる「サブカル」店舗が建ち並ぶ。しかも、これらに混ざってラーメン屋、ガシャポン屋、80年代シティポップを扱うレコード店があるところまで秋葉原そっくりなのだ。

これはいったいどうしたことか?


 日系人が作り上げたリトルトーキョー

リトルトーキョーはロサンゼルス・ダウンタウンのど真ん中、ロサンゼルス市庁舎の目と鼻の先、ドジャーズスタジアムまでも車で6分の一等地にある。元々、このエリアにはドイツ人が住んでおり、かつては「リトルベルリン」とも呼ばれていたという。しかし19世紀末、このエリアに日本人が住みはじめると、20年も経たないうちに人口3万を超えるコミュニティを作り上げるに至った。

当然のことながら、ロサンゼルス住民はこれに脅威をおぼえるようになる。自由の国アメリカ。だが、それは表面だけで、実際には激しい差別があった(残念ながら1950~60年代の公民権運動後の現在も、これは根強く存在する)。黒人に対してはもちろん、それ以外の有色人種などに対する差別も厳しい。そんなムードの中で、ごく短期間の間に町の一番おいしいところにコミュニティを、いわば「異分子」である日本人が作り上げたら、それは気持ちのよいものではない。

 

「この連中は、われわれの街を乗っ取ろうとしている」

 

日本のアジアでの勢力拡大や日露戦争での勝利に伴って日本とアメリカの関係は次第に悪化し、アメリカ国内では排日ムードが高まっていった。そして1924年には排日移民法が制定され、これ以降、日本からの移民は禁止される。

だが、この時点でリトルトーキョーを占める日系民はすでに二世。その多くは日本への思いを抱きながらも国民としてのアイデンティティーはもはやアメリカにあった。19348月から開催されるようになった「二世ウイーク」という街をあげてのイベントでは、日系住民が総出で日本の伝統を祝うとともに大きな星条旗を掲げて行進し、アメリカへの忠誠を誓うといった催しが繰り広げられた。日系コミュニティの連帯は差別を受けることで却って高まっていったのだった。

しかし、こうした賑わいは第二次世界大戦の勃発とともに一気に葬り去られることになる。1942年大統領令9066号が発せられると、一世、二世にかかわらず、すべての日系はすべての財産を没収され、国内各地の強制収容所に収容されることに。これによって日系がいなくなったリトルトーキョーには黒人が住まうようになり、その名も「ブロンズビル」と呼ばれるようになった。

しかし、日本人コミュニティの結束力は強力だった。戦争終了とともに人々はここに戻り、リトルトーキョーを再建したのだ。街は、以前のような賑わいを取り戻すことになった。

だが、1980年代、その繁栄に限りが見え始める。当初、日本の企業の多くがこのエリアにアメリカ本社や支店を設け、この周辺に住民が暮らしていたが、賃料値上がりなどもあり、活動の中心をサウスベイと呼ばれる、ここから南へ一時間程度のエリア(ガーディナ、トーランス、オレンジカウンティなど)と拠点を移すようになったのだ。また、日本も高度経済成長、バブルを経て、アメリカでの展開をこのエリアに限定する必要も薄れてきた。そして、戦後世代と戦前世代の断絶もあり、リトルトーキョーは自らのアイデンティティーを確認する空間としての機能を失っていった。そう、日本人が1カ所にまとまって暮らす必要は、もはやなくなったのだ。それに伴って、次の世代である韓国人、中国人がこのエリアに居住し始める。リトルトーキョーはその名と表層はさておき、様々な人種が同居する街へと変貌を遂げたのだった。

 

復活した賑わい……しかし

話を元に戻そう。2016年、リトルトーキョーを訪れた際には、街がすっかり閑散としていたことを冒頭でお話しした。街の賑わいが寂れたピークだったのだろうか。それが2024年には大変な賑わいとなっていた。

 

「すわ、日本人コミュニティ復活か?」

 

残念ながら、事はそう単純ではないようだ。大変な賑わい、だがこの界隈を徘徊する人々の中に日本人はほとんど見られない。また街はさながらアキバ的様相を呈していた。

つまり、この賑わいはかつてのようにコミュニティがバックボーンにあるそれとは、もはや異なってるのだ。ご存知のように、この十年、日本文化はアニメ、マンガ、日本食を中心に世界を席巻するようになっている。世界中の人々がドラゴンボール、セーラームーン、鬼滅の刃、マリオ、ポケモンに馴染んでいる。寿司屋やラーメン屋も世界の都市部ではさして珍しいものではなくなっている(フィリピンではたこ焼きが国民的人気を博している)。言い換えれば、ここに商機がある。そこで、リトルトーキョーはこうした「クールジャパン」を再現するテーマパークと化したのだった。

日本には東京ディズニーランドがあって、日本人が多く訪れる。東京ディズニーランドの裏テーマは「ここはアメリカ」。日本人がメディアを通じてステレオタイプ的にイメージしたハイパーリアルとしてのアメリカが、そこには再現されている。

そして、リトルトーキョーは、ちょうどこの裏返しの空間といえる。つまり、アメリカ人がイメージしたステレオタイプとしての「クールジャパン」を再現する場所。

東京ディズニーランドはディズニー社ではなく、三井不動産と京成電鉄が合弁で設立したオリエンタルランド社が運営つまりている。つまり「日本人の、日本人による、日本人のためのアメリカ」が、そこにはある。そして、そこにアメリカ人はいない。

リトルトーキョーは日本人ではなく、その多くが韓国人や中国人によって運営されている(たとえば、リトルトーキョーの一角でストアが集まる複合ビル・リトルトーキョースクエアにある店舗はそのほとんどが韓国人経営だ。中には韓国焼肉や韓国化粧品の店も)。つまり「日本人以外の、日本人以外による、日本人以外のための日本」。そのステレオタイプがテーマパーク・アキバとして再現されているというわけだ。そして、そこに日本人はいない。しかし、そんなことにはお構いなく、街は空前の賑わいを見せている。

 

アメリカ=移民文化の必然的流れ?

滞在時、インタビューを受けてくださった日系アメリカ人文化コミュニティーセンターのオートディレクター・小坂裕和氏、曹洞宗大本山北米別院禅宗寺国際布教主任・小島秀明氏は、共にリトルトーキョーの日本人コミュニティのゆくえについて否定的だった。街は、次第に形だけを残して、日本人が去って行き、日系コミュニティも縮小、消滅していくかもしれない……

しかし、こうした文化のうねり、よく考えてみれば、それこそ移民の国・アメリカそのもの変貌の仕方と言ってもよいのではないか。20世紀前後、日本からロサンゼルスにやってきてリトルベルリンをリトルトーキョーに変えた。そして今度はリトルトーキョーを韓国人、中国人が変えようとしている。それだけのことなのかもしれない。ただし、アキバという「クールジャパン・テーマパーク」として。


大谷
324日、MIYAKO HOTELの壁に、突如、大谷が出現した。


アニメグッズ
店内はアニメグッズで埋め尽くされている。店の数も10件くらいはある


ガシャポン玄関
ガシャポン専門店


ガシャポン店内



シティポップ

80年代シティポップ専門店

 





キー局の一斉記者会見報道

ジャニーズ記者会見。キー局6局の内、テレ東を除く5局が中継をした。これって、恐ろしいことだと思う。なんのことはない、テレビ側の黙契というか、沈黙の螺旋というか、暗黙知というか(笑)が作動していると感じるからだ。ようするに「太いものには巻かれろ」的な心性が、選択的非注意的(無意識裡に自らにとって都合の悪い対象を感知し、それを、やはり無意識に注意=意識から除外=抑圧する行為(H.S.サリヴァン)に、ここでも選択されている。言い換えると、自らが行おうとする行動について、クリーシェ的な「思考停止」が作動している。


戦中、戦後の思考停止

第二次大戦中、人々は「鬼畜米英」のスローガンを掲げ、思考停止的に神風特攻隊や竹槍訓練に臨んだ。後者などは誰でも「意味なし」と判断できる行為だけれど(自分の母親(当時12歳)は子供心にそう思っていたと述懐している)、これは沈黙の螺旋的に選択的非注意された。ところが、こうした態度をとった人間が、戦後となると突然、"Give me chocolate!"「一億総懺悔」という態度に転向する(子ども向けに作られた「平和かるた」の読み札の中には「るうずべるとは平和神」「強くて優しいまつかあさあ」という文言がある。鬼畜が神や善人に取って代わった)。要は、そのベクトルが逆になっただけで、思考停止的な心性は全く変更されていなかったのだ。

自分はマスメディアとの付き合いが長いが、彼らの多くが報道に対しては、この思考停止的な心性を抱え続けていることをずっと感じてきた。彼らにとっての規律訓練的権力は①スポンサーの意向への無意識の忖度、②政治権力への形式的な批判と実質的な反動性、③視聴率=目前の収益へのフェティシズム、④責任回避指向、そして最近では④低メディアリテラシーに基づく、SNSへの恐怖だ。つまり思考停止的=選択的非注意的に「これは賛成(あるいは反対)しなければならない」「これを言ってはならない」という態度が作動することだ(いわゆる「放送禁止用語」(正しくは「放送自粛用語」)に対するフェティッシュな反応はその典型)。


テレビの思考停止

今回のキー局5局による記者会見一斉放送も全く同様だ。ジャニー喜多川存命時には、「太いものには巻かれろ」に基づいてジャニーズ事務所の権力に無意識に追従していた(1989年フォーリーブスの北公次は『光genjiたちへ』によってジャニーの加害を暴露したが、マスメディアは一斉に無視し、これを暴露本・トンデモ本扱いすることで、北を芸能界から葬り去っている)。ところが没後、ジャニーの性加害が明らかになると、掌を返したように、攻撃にする側にまわった(ただし、発覚当初はすぐに飛びつきはしなかった。規律訓練型権力が、無意識に権力バランスの推移を様子見したからだ)。要するに、マスメディアの対応は”Give me chocolate!"「一億総懺悔」の心性と同じ転向スタイルで、心性において変わるところは全くない。



テレビが当初性加害を渋った理由と突然ジャニーズバッシングをはじめたのは同じメカニズム

おもしろいのは、ジャニー喜多川が性加害のターゲットとしたのは、専らジャニーズアイドルとして成功することのなかった人間たちであることだ。逆に、功成り名を遂げたアイドルたちは被害に遭っていないのだ。……そんなこと、あるわけないだろう。現在、芸能界の重鎮となっているジャニーズ事務所出身のタレントもまた被害に遭っている可能性は極めて高い。おそらく東山とかキムタクとかは性被害を被っている可能性が高いのでは?。それは、今回の問題に対する彼らの曖昧な態度から垣間見える(逆にイノッチは被害を受けていないのだろう。だから、ハキハキと答えられたのではないだろうか。マスメディアはウソをつくが、メディアはウソをつかない)。しかしながら、この手のことについてマスメディアはほとんど触れることがない。なぜか?言うまでもなく、ここでも「規律訓練型権力による思考停止」が作動しているからだ。つまり、彼らはマスメディアにとっては重要な資源=商品。だから温存する必要がある。こういった心性がやはり無意識裡に作動している。そして、それは視聴者であるわれわれも例外ではない。東山やキムタクに対するわれわれの既存のイメージを破壊されたくない。そこで選択的非注意的に「彼らは被害を受けていない」と無意識裡に判断する。これまた規律訓練型権力が作動している。


ところが、今回の記者会見においては一部の記者が執拗に「あなたは性被害を受けていないのか」といった質問を繰り返すようになった。これは限りなくアウティングなのだが、これまた「太いものには巻かれろ」的な選択的非注意が作動した結果だろう。ジャニーズ事務所とテレビ側の形成逆転を”機を見るに敏”的に察知し、今度は打って変わってジャニーズバッシングを開始したのだ。このシンドロームは民間にも波及し、企業がCM等でジャニーズ事務所のタレントとの契約を打ち切る、今後採用しないと言い始めた。ちょっと考えれば、ジャニーズのタレントはむしろ被害者のはずなのだが……。にもかかわらず、被害者がさらに被害者にさせられてしまっている。これまた同じメカニズムが作動したお陰で、ねじれた状況が発生しているわけだ。

ということは、表層反省、深層無反省の構造は変わるところがないわけで、ということは、マスメディアがまたこうした「思考停止」「太いものには巻かれろ」を繰り返すことは、まあ、間違いないのではないか。




2月25日に投票が行われた宮崎県知事選で現職の河野俊嗣氏が僅差で当選を果たした。河野25万票、対抗馬の東国原英夫23万票という僅差だった。現職の際には95%もの支持率を誇った東国原はなぜ敗北したのだろう。


東風が吹かなかった二つの要因
要因の一つは、前回の当選時とは状況が全く異なっていたことにある。2006年、宮崎は政治的腐敗が極みにあった。県知事の官製談合によって逮捕された黒木博知事に続いた次の松形祐堯はシーガイアというとんでもない負の遺産を残して退いた。こうした政治的腐敗を払拭すべく次に知事となった安藤忠恕もまた官製談合によって在任中に逮捕される事態に。そんな中で泡沫候補として登場した東国原(当時、そのまんま東)が「みやざきをどげんかせんといかん!」とのキャッチフレーズで、一切しがらみのない、支持基盤ゼロの選挙戦を繰り広げる。

これに追い風となったのが自民党内の政治的ゴタゴタだった。党本部と県連で意向が決裂、二人の候補者が自民党内から立候補する事態に。県民は「どちらにやらせても、結局、現状は変わらない」とあきれ果て、スーパークリーンでしがらみのない泡沫候補を選択したのだ。つまり「東風」が吹いたのだ。その後、周知のように東国原は宮崎を全国区にすることに成功する。それが金正日、ヒトラーばりの支持率獲得に至ったのだった。


だが、今回は事情が違った。東国原周辺には複数のマイナス要因が広がっていたのだ。

一つは河野県政。元はといえば河野は東国原が知事に就任した際に副知事として指名した人物。つまり、東国原県政をバックアップする第一人者で、東国原が一期で知事を退任後、県政を引き継いだ。その後、さしたる問題もなく県政を運営することに成功する。もちろんしがらみや政治的腐敗とは無縁。人柄も温厚で県民の支持も厚い。東国原がある程度の宮崎の経済基盤を立て直した後、人々は県政のクルージングを望むようになる。いわば武断政治から文治政治へのマインドシフトが起きていた。ということは、東国原が2007年に流行語大賞を取ったキャッチフレーズを再びアレンジして持ち出し「シン、どげんかせんといかん!」と訴えたところで「何を?」との反応が返ってくるの関の山。県民は今回の知事選において首長を変更するさしたる理由を見つけることができなかったのだ。

もう一つは「身から出た錆」である、たった一期で知事を辞めてしまったこと。知事時代、僕は宮崎に暮らし、テレビ番組絡みで東国原に何度かインタビューをしたことがある。その中で彼が訴えていたのは「骨を埋める覚悟でやります。宮崎は私のお母さん」とコメントしていたのだが、あっという間に手のひらを返してしまった。今回の選挙戦で、その理由を「口蹄疫の際に宮崎牛が途絶えてしまうことを避けるために、数頭を法律を無視して避難させたのだが、一部の人間から、『次に立候補したら、このことをバラして政治的なスキャンダルにする』と言われ、泣く泣く立候補を諦めた」と説明しているが、これはウソだ。

任期が進むにつれ、東国原は県知事という職務が自分が思ったよりもはるかに限定された活動しかできないと認識するようになる。「県知事じゃ、なんもできん」的な発言を繰り返すようになったのだ。曰く、「ぷらーっとしてた」。そして、かつての情熱は冷め、県庁にもあまり顔を出さないようになった(東国原の活動を逐次チェックしていた僕は、県知事番の記者、番組担当者複数から、この時期の東国原のヤル気なさの報告を受けている)。そして、その思いは国政に向かっていく。当時は自民党も小泉が辞任してゴタゴタ状態。この打開を図るべく自民党は選挙対策委員長・古賀誠が自ら宮崎に赴き、東国原に国政に参加するように要請するほどだった。結局、東は東風を捨て、自ら東へ向かった。そして、その勢いは止むことなく東京都知事選に立候補。落選こそしたが、百万票を獲得する(石原慎太郎が考え直して立候補しなかったら、おそらく当選していただろう。都知事選後、ジャーナリストの田原総一朗は東国原との対談で「これ、あなたの勝ちですよ」とコメントしたほど。つまり「試合に負けて勝負に勝った」。だから、次の都知事選を狙って虎視眈々と準備をしていれば当選は可能だったはずだ。ところが、そうはしなかった。東国原はコメディアンそのまんま東からコメンテーター東国原英夫として再びテレビ画面に露出しはじめた。そう、こちらも早々に活動をやめてしまう。また「ぷらーっ」としはじめたのだ。)

当然、県民は怒った。あれだけわれわれを持ち上げた挙げ句、あっさり捨てたのだから、それは当然の反応だった。



東

東國原知事(当時)にインタビューする筆者(2007)



東風、実は吹いていた?

では、東風は吹かなかったのだろうか?いや、やはり今回も吹いていたと考えるのが妥当と僕は考える。

前回戦った際の投票数を比較してみよう。2007年は27万票、今回は23万票と減少している。ただし、前回二つに分かれた自民党候補者の獲得投票数を合計すると32万票。一方、今回河野俊嗣が獲得した投票数は25万票。獲得投票の占有率は前回(2007)よりもアップしているのだ。しかも、これは自民、公明、立憲民主党が相乗りでバックアップしての数字。東国原は支持基盤なしの「丸腰」。それでもこれだけの票を獲得したのだ。投票率は前回(2018)比22.7%のアップ。このアップ分の多くが東国原に一票を投じたと考えるのが妥当だろう。そう、東国原は変化を望まないと思われ、投票率が右肩下がりだった県民に、政治意識を覚醒させることに成功しているのだ。


河野は勝利宣言に際して思わずメガネを外し、流れ出る涙をハンカチで拭き取った。河野自身もこれまでの県知事選とは違い、非常に厳しいものであることを予感していたのだ。もし仮に、支持基盤の一つだけでも東国原に寝返っていたしたら、敗北は免れなかっただろう。勝って兜の緒を締めよ、河野はおそらくそんなふうに思っているのではなかろうか。そう、今回も東風は吹いていたのだ。ただし、都知事選同様「試合に負けて勝負に勝った」のである。


東国原のこれから……持続力がポイント

この後、東国原はどうするのだろう?四年後に再び県知事選に出馬するとすれば、また大きなイベントになること、そして東国原が勝機を得られる可能性は十分に考えられる。河野県政を批判するとすれば、それは「多選」あたりがポイントになるのではなかろうか。

ただし、東風を吹かすためにはやはりいくつかのハードルがある。

一つは東国原の年齢だ。四年後の選挙の際には69歳になる。つまり、高齢がネックになるだろう。多選VS高齢の図式が考えられる。

ただし、これはさしたるマイナス要因ではないだろう。いちばんの問題は東国原自身の持久力だ。目標に向かったときのエネルギーは今回も含めてすでに実証済みだが、それを獲得した後の持続性がないと周囲からは認識されている。県知事を一期で辞め、都知事選落選後も次への立候補を考えない。「あの男は飽きっぽい」と思われても仕方がない行動をとり続けているのだから。これをどう払拭するかが、次期県知事選への当落のポイントとなるのではないか。


宮崎在住時、何度となく東国原さんとは会話する機会があったのだけれど、とにかく頭のよく回る人、そして宮崎のことをよく勉強しておられるという印象があった。「先生の大学の野球グランドのバックネット。破れて半年以上経ってますけど、あれ、どうにかなりませんかねぇ」と指摘されたときにはかなりビックリした。当の僕が、そんなこと知らなかったからだ。また県知事在任時はオール野党と言われ、自民党から赤子の手のひらをひねるようなものと思われていたが、議会でもメディア上でも、その豊富な知識とキレのよさで、県議会議員を打ち負かすこともしばしば。挙げ句の果て、自民党県連が東国原にひれ伏した的な状況にもなった(だから支持率もアップしたのだけれど)。


東国原が知事に返り咲くためのプラン

東国原が四年後に知事に返り咲くために、本人がやるべきこと。それは持続性(サスティナビリティ)を県民に向かって証明することにあると僕は考える。具体的には宮崎に根を下ろし、四年間、宮崎に向けた政治活動を行うことだ。それはボランティアやNPOとしてでもよいし、いったん県議会議員になってもよいだろう。かつて知事時代にやったように、マスメディアを駆使した自らの全国区での活動とこれをリンクさせる。こうした地味な活動を派手なパフォーマンスで展開すること。つまり持続性を証明することではじめて一期での退任批判を覆すことが可能になる。

その根拠は、今回の23万票という結果が示している。そう、繰り返すが依然として東風は吹いているのだ。その風向きをコントロールすること。東国原にはそれが求められている。退任罪、懲役四年と考え、ムショ(宮崎)では模範囚を務めて欲しい。

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